‶北の誉〟酒造に着手 野口吉次郎

2024年01月19日

合同酒精の設立も

 『いい気になるな』『我が気に任すな』『我が身に値打ちをつけるな』『他人の骨折りを盗むな』『損しても徳をとれ』…なき吉次郎の遺訓は、いまもなお『野口商店五訓』として、会社員に歌い上げられている。

 吉次郎は安政三年、石川県花園村で西川善兵衛の四男として生まれた。野口つると養子縁組のあと、明治十九年本道に渡り、小樽にその第一歩をしるした。しかし生活は苦しく、古着の行商や石炭の荷役人夫にまで身を落とし、こ(糊)口をしのいだりした。

 その翌年しょうゆ醸造の経験によって、石橋商店に入社したことが、吉次郎の運命を左右した。実直な人柄と、回転の早い頭脳をもっていて、主人から全幅の信頼を寄せられ、石橋商店の業績は、吉次郎を得てから目に見えるように上昇。世人に『吉次郎会っての石橋商店』といわしめるほどだった。

 三年後の二十三年、主人から醤油販売の開店を許され、手宮に店を張ったのが、野口商店の創業となった。このあと実弟西尾長次郎も販売店に従事、販売区分を東組(色内町方面)西組(奥沢南樽方面)北組(手宮高島方面)に分け、各組に三人ずつ配属して画期的な販売に当たり、主人の絶大なる信用を買い、酒業も加え、営業は進展するいっぽうだった。

 不況のため、各地の銀行が破たん続きとなった三十四年には、酒銘『北の誉』『旭養老』の酒造に着手、二年後に、代表清酒『北の誉』の商標を登録するにいたった。四十一年、実子喜一郎が一年志願兵として旭川第七師団を除隊になると、すぐ業務を譲り、吉次郎は酒造部に専念した。ときは五十歳になったばかりの働き盛り。

 道内四しょうゆ会社が乱売合戦の末、経営ピンチに追い込まれこれを合併、合同酒精を設立、この経営に参画したのが、現在の社業を隆盛に導くきっかけになった。このときは、七十万円の税金滞納、八十万円の借財を背負っていたときで、首脳陣が三日三晩かかって検討したが結論得られず。『若い者はもうからない商売に苦労すれば利口になる』という吉次郎の‶ツルの一声〟で喜一郎が引き受けたいわくつきのものだった。

 これがのちに、全国ビックファイブに数えられ、本道の合同酒精から日本の合同酒精へと飛躍していった。神仏を尊敬する意思厚く、ことに親鸞聖人の他人本願に帰依、自ら日々を感謝報恩の思いで送り、主家の恩義にたいしても『おかげの受け合い』という名句を終生の‶心のカテ〟としていた。

小樽経済界の百年の百人⑨