船主同盟つくる~麻里英三

2024年01月09日

克苦精励し地位を築く

 『①商売女はいいが、しろうとに手を出してはいけない②無尽にはいってはならない③人に迷惑をかけるな…とオヤジは常日ごろいっていた。だから海難に会って商売に失敗すると、人に迷惑をかけない、金も借りないといさぎよく商売をやめて晩年を初山別で送った。オヤジは海と土さえあればなんとかなるものだ。どうせ裸一貫でもうけたもの。なくしてもともと。お前たちのために少しの財産を残して置いたといい、手宮、稚内、石狩などにあった不動産を思い切って整理した』初山別出身の現道議麻里悌三はオヤジ英三の思い出をこう語っている。

 英三は油、汽船、精米で大いにもうけた人である。花柳界でもはでに遊んだ。麻里見番をつくった人でもある。しかしその半面りちぎな一面ももっていた。『オヤジの前でアグラをかくとしかられましてね。それは厳格なものでした。克苦精励してその地位をかち得た人だけにともかく独立心の強い人でした。またもうけたカネはケチケチせずに社会事業や神社仏閣に寄付した。信仰心もあつかった』と悌三はオヤジの人がらをさらにこうつけ加えている。

 英三は嘉永五年松前の福山町で生まれた。幼名は能代屋豊三郎といい、幼いときに漁場の養子となったが、生活は苦しかった。しかし育ての親には孝養を尽した。幼時の思いではあまり語らない人だったが、当時の苦しい生活がよっぽど身にしみたのか晩年英三に〇タルガキを口にすることができなかった』といっていたという。

 十三歳のとき、石狩や厚岸で漁場をしていた山田文右衛門に奉公、このときソロバンの勉強をよくした。明治四年主家を辞し翌五年小樽の信香町に移り住んで最初の荒物屋を始めたがうまくいかなかった。しかしなんとしても世に出ようと心に誓い同十六年肝油とニシン油の製造を始めたが、これがようやく当たった。

 英三の養家は浅利家といった。英三は『浅利では商売もきっとよくならない。‶麻里〟にしよう』と家の名を変え、紋章も二重亀甲に花菱(唐花)をあしらった金毘羅紋にした。これは日本の紋帳にないものだった。それほど英三は独立心に富んでいた。英三は朝里に住んでいたことがあるが、この朝里の名は『麻里』からとったものだともいわれている。

 英三は肝油商売をしているうちに痛切に感じたのは当時の運輸交通の不便なことだった。本道の開発を促進するのには海運業を伸ばさなければということで明治二十二年汽船『第一飛竜丸』を買いこのあと次々に船舶を購入して、その数、十隻におよんだ。こうして数年のうちに巨万の富を築いた。 

 英三の製造した魚油は明治三十四年のフランス大博覧会で金牌賞を受けたほど優秀なものだった。また思い出としては大正天皇が当時皇太子として小樽にこられたとき代表してお話の相手をした。このときにかぶったシルクハットは麻里家の家宝として残されている。弁説さわやかな人で当時小樽の代表的人物だった。船主同盟をつくり小樽海運界の恩人でもあった。

 区会議員をしていたが、政界への野心捨てがたく明治三十五年道議に立候補して落選、この遺志は悌三によって引き継がれた。晩年船が次々に衝突して事業に失敗した英三は初山別でわびしく暮らし昭和八年八月没した。

 

小樽経済

百年の百人⑩

北海タイムス 昭和40年6月28日