一厘の倹約で産 名取高三郎

2024年01月12日

金物、鋼材で有数の問屋に

 『人間若いときに働いて貯金をなすべし。年ごろになれば妻を迎え子供は生まる。妻方、親類の交際などのため費用多くなるゆえ、独身のうちに働いてカネを残せよ』これは高三郎の祖父がよくいっていたことだった。この教えを忠実に守り抜き、地道に金物商売を続けて今日の名取商店の基を築いたのが高三郎である。

 高三郎はきちょうめんな人で自分の生い立ちを手まめに書いた記録を小冊子に残している。この小冊子は三代目三郎のもとに大事にしまわれているが、これによると高三郎は安政五年十月二日山梨県の農家に生まれた。当時田畑が流失して生活には苦労した。しかし幼時よりからだが大きく力もあったのでよく家の手伝いをした。

 しかし高三郎の生活は苦しい農家にはあきたらなく、なんとかしてもカネをためようと考えた。そこで両親とともに相談して当時ノコギリの行商をしていたおじの今井素泊にたのみ、おじとともに明治八年一月北海道に渡った。そのとき新潟から三百石積の和船に乗ったのだが、大暴風に会い、いろいろ苦労しながら寿入港した。高三郎はその冊子に『おじにいくらカネがもうかってもこんな思いをするならいやだといったのだが、何をいう金銭はあぶないところにしかないのだとしかられた』と記している。

 このおじのことばが身にしみて高三郎はその生涯一つのグチもこぼしたことがなかった。三代目三郎と同夫人は『祖父は考えてこれがいいと思ってやったことは悔いてはいけない、グチの声は聞いたことがなかった』高三郎の人がらを語っている。

 高三郎は小樽に移り住んでおじとともに岩内、留萌などノコギリの行商に歩いた。そして明治十年、小樽の山ノ上町におじは今井金物店の店舗を設けたが、これをよく助けた。同十二年おじはに引きあげ高三郎は店のいっさいをまかせられた。このときおじは①借金をなさぬこと②すべての保証をしないこと③衣類は寒暑をしのぐのみにて絹布は用いぬこと。質素倹約をむねとしておごりがましいことをしないこと…などの申し渡しをして国に帰っていった。

 だから高三郎は一銭一厘でも倹約してよく働いた。人がムダにするものほど大事にしなければならないと家族のものにうるさくいった。『水をそまつにするな、火を大事にせよ』といい、その生活は質素なものだった。

 明治三十年第一銀行の場所に店を新築して名取商店として独立、金物、鋼材を扱い、ついに道内でも有数の問屋にのし上った。小樽銅鉄組合の組合長を長年にわたりつとめ業界の信用は絶大のものがあった。高三郎の好きなことばは『誠』と『和をもってたっとしとなす』であった。投機的なものには手を出さず一銭一厘で倹約して産を築いたが、しかし私腹をこやすことなく故郷山梨の小学校建設に多額の寄付をしたり、また今次太平洋戦争のときにも感激してよく国のために尽した。

 高三郎はまがったことのきらいな厳格な人で恩を受けたおじの家にもよく尽し人の世話もした。

 明治三十四年会議所の議員、三十五年から大正三年まで推されて区議などをしたが、しかし決して政治に走る人ではなかった。口数も少なくうそをいうことが大きらいな人だった。昭和二十四年家族の一人一人の手を取りながら九十二歳の天寿を全うした。(敬称略)」

 

小樽経済百年の百人⑩

北海タイムス社編