運送界の先覚者 二代目中谷宇吉

2024年01月14日

侠気と純な実行力が身上

 宇吉は明治二十年二十歳のとき来樽、養父の仕事(ハシケ仲仕業)を手伝った。身長が一・八㍍(六尺)もあり、からだが大きく義侠心に富んでいたので、彼には適した仕事だった。

 同二十六年当時内務大臣だった井上馨が本道視察のため来樽したことがある。小樽の有志が開陽亭(現海陽亭)で歓迎会を開いたが宇吉も列席した。この席上、小樽港の防波堤の急速築造の陳情を行ない理事者が原案を説明したが、宇吉は自席から突然大声で『その案は小さすぎる。高島の弁天島から熊碓まで(いまの港界線)にしてほしい』と、小樽百年の計をあやまらぬよう要請した。

 当時も小樽港にはまだ防波堤もなかった。道内の奥地が開発されるに伴い、あらゆる物資が小樽港を中継するため、小樽に出入する船舶の数は急激に増加していた。そのころ小樽港は特別輸出港の指定を受け日本郵船、三井物産などの支店も設置されるなど、港湾の整備は急務のときであった。

 ともあれ、井上内務大臣はびっくりしたが、図面を開いて宇吉から説明を聞いた。翌日には宇吉が案内役となり港湾を視察して『将来本道の一大玄関となる小樽港だけに広い港必要だ』と力説した。しかし防波堤の造成は絶対必要だが、これに伴う経費がばく大にかかってはと、理事者の原案通り、現在の防波堤が広井勇博士の手によって完成したわけだ。もし宇吉の主張が国に受け入れられていたなら、小樽港の使命もまた別の面で大きく違ってきただろう。

 さらに彼の半生は朝鮮の金玉均を知ることから日韓合併の組織に介入、単身朝鮮に入国ほどの急先鋒であったが、これは先の井上に諭され帰国している。

 同三十二年、小樽に区制が実施されると、三十二歳で区会議員となった。(市制後市議)が、四十年の第二回道議選には保守党の小町谷純を破り当選すると、楽隊を作りマチを練り歩いたという逸話が残っている。この小樽一の知識人といわれた小町谷弁護士が晩年書いた『小樽の思い出』という書物に『失礼申し分だが政治的識見も才幹も持たない人。しかし邪心のない、しやれな気分のいいおにいさんだった。この人が道会議員の候補者になったのはおかしい…』といっている。しかし邪念のない侠気と単純な実行力が宇吉の身上で、小樽一のハシケ会社を経営、井上内務大臣に小樽築港の私案を発言するなどは、小町谷の知らない一見識を持っていた。

 実業家として、また政治家としてりっぱにその任を果たし、日韓合併を唱えたが、六十八歳で没した。

小樽経済百年の百人⑯

北海タイムス

昭和40年7月15日