育英事業に熱意 五代目 木村円吉

2024年01月18日

商大の敷地も寄付

 『勉強したい者にはいくらでもお金をだしてやる』というのが、この人の口ぐせだった。商家に生まれ学ぶ事の出来なかった円吉は、事業家として成功すると、家庭的に恵まれない生徒たちにポンと奨学資金を与えた。円吉の援助で旧制中学や大学に学んだ人は十指にあまる、浜益村出身の蛯名忠雄もその一人。東大を卒業、現在は定山渓鉄道の社長をしている。

 円吉は五代目木村円吉に当たるが、初代は青森県東津軽郡大泊村の出身で、大工をしていた。安政元年渡道すると増毛町で船大工になり、資金を蓄積すると漁船を買入れ、ニシン漁を始めた。五代目円吉は浜益の生まれ、両親が木村家と親しくしていたことから四代目の養子に迎えられた。

 二、三代目が木村家の土台を築いたとするならば、五代目円吉はそれを巨大なピラミッドに造り上げたといえよう。ニシンは大漁続きで、漁場は銃を越えた。良い意味でのけちで、もうけた金を遊びには使わなかった。北海道の中心都市だった小樽に土地を買った。当別、美唄方面の土地は水田に変え、生活に苦しんでいる人たちに、農業を営ませた。

 円吉の略歴を調べてみると、他の事業化のように商工会議所議員、市会議員、組合関係の役員などの肩書がみあたらない。『華美なことがきらいというのでしょうか、公職を持つことがきらいな人だったようです』。倉庫業を営む円吉の妻花が語るように地味な存在だった。

 その後小樽に進出したが、育英事業を始めたのもこのころ。前に述べたように蛯名忠雄が学費がなくて東大受験をあきらめたという話を耳にすると『大いに勉強しなさい』と学費を引き受けた。この五代目円吉の援助で北照高の前身、北海商業や大学に学んだ人は数多い。

 小樽商科大学の敷地十六万余平方㍍を寄付したのもこの人。小樽では漁業のほか、船舶業にも手を伸ばし事業を拡大したが、人のためになること、特に教育に関しては惜しみなく資金を提供した点でその功績は大きい。

小樽経済百年の百人⑰

北海タイムス

昭和40年7月16日