精力的な事業欲 秋野音次郎

2024年01月23日

道内屈指の薬問屋築く

 オットセイのキモのカン詰をつくったのは、世界でもこの人が最初で最後ではなかろうか。明治三十八、九年ごろのことだが、小樽で食料品、雑貨、薬の店をだすかたわら、樺太真岡でカン詰工場を経営していた音次郎は、オットセイの肉が体を暖め、キモが栄養上、非常によいことを知って製造したものだが、くさくて食べる人がいなく間もなく製造をやめた。それほど事業に情熱を傾けた人で、立身伝中の一人に数えられている。

 滋賀県近江は八幡の出身で、宿屋を営んで居た清水家の末っ子として育った。明治十七年二十三歳の年、単身北海道に渡り市内祝津町にあった商店に住込んだ。その後郵便局の配達夫になったが、薬に興味をいだき、札幌で薬屋として有名だった秋野幸三郎方に住込んだ。勤勉さが認められ養子となり十年後小樽市入船町一ノ二の現秋野商店を開いた。

 余年後に日露戦争がぼっ発、小樽港は日本海軍第一艦隊の基地となり、音次郎は同艦隊のご用商人となった。戦争は大勝に終わり、樺太の半分が日本の領土となった。大勢の人たちが樺太の開発に向ったが、音次郎もその機をのがさず、樺太北部のアレキサンドルフスクに支店を設けるとともに、土建業とカニのカン詰工場をつくり事業に手を伸ばした。

 カニカンのほとんどはイギリスに輸出した。オットセイのキモのカン詰をつくったのもそのころ、事業欲盛んというか‶これはいい〟と思った事業は必ずやってみなければ気がすまない性格だった。

 樺太のカン詰の業界では三分の一以上の販売高を上げたが、製造技術がおくれていたため輸出先に届いたカン詰がくさっていたことから責任をとり、工場を実弟清太郎(小樽駅前で薬店オリンピック屋経営)に任せ、小樽に戻ると、薬専門の店に変えた。

ここで道内指織の薬問屋としての秋野商店の土台を築いたわけだが、販売の拡張には精力的に歩き回った。当時の道東、北地方はまだ未開の地で、クマが出没するという物騒さで、ピストルを持ち歩くことは禁じられていたが、警察にたのみこみ、ピストルを懐に山地をかけ回ったという。

 薬屋さんでビールをうっていたというとちょっとおかしいが、このころはサッポロビールが製造されるようになったばかりで、酒というよりも滋養剤とされて薬屋さんで扱われていた。公職を引き受けることがきらいで、市会議員や商工会議所議員に推されたが、断り続けた。事業ひと筋に生きてきた人で、店を継いでいるむすこの秋野武夫は『口数の少ない父でしたが、仕事については親切にすることを第一に考えろとよくいわれました。書き物などのこっとう品を集めて楽しんでいました』と語っている。(敬称略)

小樽経済百年の百人⑰

北海タイムス

昭和40年7月16日