包容力で頭角を 岡崎謙

2024年01月31日

ソロバン度外視する趣味人

 商人でありながら、ソロバンを度外視して終生生活を楽しんだ人間岡崎謙はチ密な頭脳の数理に明るい人だった。明治十年四月、新潟は佐渡にうぶ声を上げた。ミソ醸造のかたわらその販売に当たっていた父藤太郎とともに渡道、東京英和学校、国民英和学校で学び、のち東京高等商業学校(現一橋大)に学んだ。三十二年父をなくしてからは、その残した米、雑穀、荒物、倉庫の伸展に力を尽くし理路整然とした話術と、その大きな包容力でたちまち小樽実業界に頭角を現わした。

 『口やかましくほめられたことがなかったが、やさしい面があった。鼻っ柱が強い割りに涙もろい人情家だった』と、しみじみ語る。実娘岡崎佐代(入船町七ノ六)が語るように、その人柄は多くの人たちから親しまれた。

 区制時代から区会議員に選ばれ市制が敷かれてからも市会議員として小樽の町づくりに力を尽くした。『わが小樽市の発展は日本国家の発展なり』との信念を携え、昭和二年市会議長に就任したときも、激烈だった各派抗争の中で、岡崎をして各派推選にしたほどの人望家だった。

 これより前、明治四十五年、出身地佐渡の憲政会から代議士候補の懇情やみがたく、当時の山本悌次郎を相手にしたことがあったが、投票日の三日前、官憲を動かして妥協をもくろんでいた憲政、政友両派首領の悪取り引きに憤慨、、立起を取りやめて帰樽した。このときの開票結果、三十二票の差があっただけで、立起を取り消さなかった場合、どういう結果がでたかと、いまなお古老たちの間で話題になっている。

 いらい、『政治屋のおもちゃにはならぬ…』と、どんな懇情にもガンとして応ぜず、市政のみは自分の市であると、貢献した。

 前田家のお抱え能楽師だった波吉宮門について能をのが、二十代の東京高等商業学校時代。唯一の道楽としてその凝りようも大変なものだった。故郷の佐渡から直径二㍍四十㌢もある銘木神代杉を取り寄せて能楽堂を普請したのでもわかる。

 船を一隻借り切って運搬、このときには名人といわれる木びきをわざわざ佐渡から呼び寄せて板を作らせた。舞台の背景となる鏡板の松は狩野第十七代乗信(もちのぶ)が、京都の絵具全部を買い占め、二ヵ月もの間岡崎家に滞在し描き上げた逸品。

 昭和元年に完成したころは、春秋には好き者同士が相集まってタイコやツヅミの音を響かせたが現在の高松宮妃殿下も女学生時代(昭和三年八月)さらに同六年七月には徳川家達(いえさと)が来樽、舞台を見に来たほどでいまなお小樽市に寄付され、その見事なできばえに魅せられる市民も少なくない。

小樽経済百年の百人⑲