外柔内剛の人 杉江仙次郎
2024年02月02日
中央バスの前身を築く
『人の保証をしてはいけない。そうしたはめに追いこまれることもあろうが、そこはこらえて、たとえ兄弟、縁者でも保証はしないこと…』仙次郎は養子の猛=現中央バス専務、杉江商店社長=に店を譲るとき、こういって杉江の印鑑を手渡した。『人は死ぬまで働かなければいけない。決して他人をたよるな』若いころから苦労して、その地位をかち得た人だけに独立独歩の人だった。なくなる三日前までバス路線をふやすことで、銀行筋に足をはこび金融の折衝をした。その一生は死ぬまで働くことを貫いた人だった。
松山嘉太郎中央バス社長は『ともかく知謀の人だった。もっともこの知謀におぼれる一面もあったが…』と仙次郎を率直にかたっている。いわば知恵者であった。ジックリ物事を考え、方針が決まるとすぐさま実行に移した。たとえこれがこれが失敗しても決して悔いはしなかった。こうした一面は徹底していた。あるよき株屋からこの株は絶対いいと進められて、考えた末、その株を買ったが、大損した。しかしこれは自分の責任だといってグチ一つこぼさなかった。
家庭的には厳しく、外ではじよさいないという内剛外柔型の人だった。ひとり娘の千代子=猛夫人=は『とてもこわい父でした』といまでもいっており、どちらかというとたんぱらな性格だった。しかし人前ではおこらない。また他人をおこりつけることはしなかった。長い間の精神修行がその性格を殺すことを身につけさせたのだろう。このことについては仙次郎のなくなる少し前、中央バスのストが起きたが、猛は専務として労組の交渉に当たった。猛は対労組交渉にすっかり腹をたてたが、これが仙次郎の耳にはいり『腹たったほうが負けだ』とさとされた。『公の事で怒るとは禁物』とよくそのたんぱらな性格を押えた。
店員教育はきびしく、見込みのある者はうるさく注意した。また自分の苦労した店員時代のことを考えてわずかなお金でも節約した。しかし安物買いのゼニ失いということはしなかった。舶来の洋服を仕立て、このほうが安物より長持ちするという持論を持っていた。この人ほど内と外をはっきりと区別して考えた人もほかに見当たらない。それに親類筋などの子弟によく学費を出し、これにおごることなどはしなかった。
仙次郎は明治十一年十一月愛知県常滑市で生まれた。家は回船業を営み、長男だったが『回船はこれから見込みがない』と、いいいとこの稲葉林之助が小樽で手広く船具、鉄銅業をしていたので、林之助をたよって稲葉店の店員として住み込んだ。まじめな働きに林之助からかわいがられ、支配人までになった。仙次郎は独立を志したが、林太郎が離さず、五、六年おくれて石油と食料品雑貨の店を開いたのは明治四十二年のこと。主家と商売で競合しては相すまぬと、まったく違った商売の道にはいった。
こうして生来商売熱心なところから店は大きくなり今日の杉江商店の基を築いた。昭和七、八年ごろ自動車に手を伸ばし同十年現在の中央バスの前身である小樽市内自動車長になった。同十八年札幌のバス会社が戦時統合、中央バスの名称で新発足。この初代社長となったが、本社をあくまでも小樽に置くことを主張してこれが実現した。このことは北海道石油販売統制會社についてもいえた。本社を小樽に置く運動をしてこれがとおったのだった。いついかなるときも小樽を愛することを忘れたことのない人だった。
昭和四年から同十九年まで商工会議所会頭、また同十五年からなくなるまで市議をしていた小樽市政の功労者でもあった。若いころは、政治が好きでよく応援演説をした。ロータリークラブが政治の道にたずさわっている人は入会させられないといったとき、それなら私のほうからことわると、ロータリークラブに入会しなかった反骨の士だった昭和二十八年、七十六歳でその生涯を閉じた。
小樽経済百年の百人⑳
北海タイムス社編
昭和40年7月21日
そば会席 小笠原
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