汽船部を設立 初代 酒井正七

2024年02月09日

有数の回漕業の地位

 『他人に迷惑をかけない人間がまともな人間といえる』『人間として生を受けたからには人のためにならなければならない』と正七は常に口にしていた。

 正七は新潟県柏崎市で米穀業を営んでいた松原城慶の二男として生まれた。柏崎中学を卒業と同時に兄とともに母方の養子となり酒井姓を継いだ。

 明治二十五年考えるところがあり、北海道で大金を持ってやろうと函館市の知人をたよって来道、函館市内で醸造業を始め、商売はとんとん拍子に発展していったが、小樽で回漕店を開いていた初代塩田安蔵に見込まれ、醸造に未練はあったが家や工場を売り渡し塩田回漕店の支配人として迎えられた。

 正七は信仰に厚く正法寺檀家総代をやっていた。家庭内においても使用人や他人にたいしても態度やことば使いなど、いかなるときでも紳士的で絶対、型をくずすことがなかったほどきちょう面で、小樽市内でも名物男として通っていた。

 大正十三年、日本は島国であるところから事業は絶対回漕業に限ると独立して稲穂町に『酒井汽船部』を設立、社長におさまった。性質がきちょう面なのと、付き合いがよいため商売は大繁昌、最初『勝山丸』(二三〇〇㌧)だけだったのが数年間の間に『南洋丸』(八六〇〇㌧)『大栄丸』(五五〇〇㌧)『明治丸』(二三〇〇㌧)『正元丸』(五五〇〇㌧)を所有、樺太-横浜間などに航路を設け、小樽では有数の回漕業となり金もおもしろいくらい手にすることができた。

 正七はふだん口ぐせにしている『人のためにならなければならない』ということから昭和十五年小樽高商の学長と相談、学資に困り、苦学している学生十人を選んでもらい卒業するまでのいっさいの学資を援助した。

 また小樽中学と小樽高等女学校の誘致のさいには、せめて土台の部分だけでもと、当時としては大金五十万円を惜しげもなく寄付関係者から喜ばれた。

 正七は政治面や長ということばがきらいで、公職にはつかず会議所の議員にもならなかった。せいぜい出席しても委員として開運関係の説明役にまわるくらいのものだった。

 二代目正七(七八)は、初代正七について『父は昔のことでもあり、学校に行けなかったためか、教育には非常に熱心だった。小樽高商の学生十人に卒業するまでのいっさいの学費を返済なしで出していた。それらの人たちも今では皆出世して時どきたよりがある。子供にたいしてもしつけや言葉遣いが正しい人でした…』と語っている

(敬称略)

小樽経済百年の百人㉓

北海タイムス社編