企業(中小)の救い主 竹田助太郎

2024年02月10日

奨学学資金制度生みの親

『まがったことが大きらい。正直の上にバカのつくぐらいの人でした…』…いまはなき夫を語るカウ未亡人(六七)のことばを裏書きするように、助太郎の業績はいまなお市民の間に浸透している。新潟は直江市、自作農の二男としてこの世にうぶ声を上げた。明治十七年三月のこと。徴兵検査の折り、トラホームにかかっていたためにはねられ、一旗上げようと北海道に渡ることを決意、明治三十八年、二十一歳で渡道した。

 はじめ岩内町の大島漁業に務めたが、二年後発展の一途をたどる小樽に移り、海産問屋牧口商店にわらじをぬいだ。だが、牧口商店は倒産の不運にあい、このときは残務整理などいっさい任されるほどになっていた。

 そして整理がすむと経験を生かして、色内町(現富士銀行小樽支店あたり)で海産業を営んだ。生来、頭の回転が速くそのどう察力は、世人が舌を巻くほどだったという。またたく間に商圏を拡大、さらに石炭の販売をも手がけて、遂には樺太まで助太郎の名が響かせていた。

 昭和十一年、昭和ゴムの専務に迎えられ、北海道ゴム工業協同組合理事長を長く勤めたこともあった。この間小樽市会議員を五期勤めたのを初め、家裁の調停委員は三十年もの長きにわたって勤め、昭和二十六年十月には藍綬褒章受章の栄誉に浴した。

 中小企業育成に強い影響力を持った小樽信用組合の運営にも参画したが、経営の乱脈を指摘し不信用組合とまでいわれ、経営ピンチに追い込まれたとき、中小企業にはなくてはならない機関であることをだれかれなく力説、小樽信用金庫に組織を改め、自ら理事長を引き受けて、正常な姿に戻した努力はいまも小樽経済界でたたえられている。

 昭和二十六年。ときの福岡市長を動かし、市政の一環として立ち直らせ、現在の小樽信金育ての親とうやまわれているゆえんだ。

 物の一箇にかたよることもなく公平慎重、清潔、誠実な行ないで信用を得た人。分家に生まれ、本家に遠慮した親のために教育を受けることができなかったことから、明治大学の講義録を取りよせて学んだだけに、学資のない学生のめんどうは人一倍みた。

 これが年末になると、市自体に大口の寄付を申し出、これを基金として昭和二十七年、小樽市に初めて奨学資金制度が設けられ現在もなお多くの向学心に燃える青年たちに有効に使われている。いわば中小企業の救い主でもあり、小樽奨学資金制度生みの親でもあった。

小樽経済百年の百人㉔

北海タイムス社編

昭和40年7月27日