業界三位の実績 川合佐平

2024年02月17日

戦後、出張販売で

 戦後、対岸貿易が封鎖され、樺太への移出が途絶した商港小樽は斜陽のみちをたどったが、北海道林屋製茶もその例外ではなかった。『真岡、豊原両支店を失ったことは大きな痛手だ。しかし過ぎたことはしかたない。その販売は道内でカバーしよう』とただちに立ち上がった佐平は、まず全道をくまなく出張販売することにした。

 戦前は国鉄の駅があるところしか販売しなかったのが普通、ところが佐平は辺地まで侵入することを命じ、またみずからも新規開拓に精を出した。同業が戦争の悪夢からさめたときには、林屋製茶の販売網はすっかり道内に張りめぐらせてあった。現在同社が業界で全国三位にランクされているのも、このときの信用があったからだろう。

 佐平は宇治の林屋合名会社小樽支配人として来道した。ところが林屋合名が海外進出に失敗したことから道内の支店(小樽、札幌、旭川)を閉鎖することになった。佐平は林屋の屋号をもらい、ほぼ二ヵ月もかかって株主をつのり資本金四万円の北海道林屋製茶を設立した。『おやじさん以下、全員が血みどろになって働いた。栗島すみ子、酒井米子など芸能人を招き、宣伝したこともあった。』と大番頭の鈴木専務は当時のことを語る。佐平は温厚な人で、社員を呼ぶのに‶さん〟づけした社員も‶社長〟と呼ばず‶おやじさん〟といっている。また佐平はよく『タコでいうなればおれは頭、手足は君たちだ』とたとえ『社員あっての会社だ』と部下を尊敬していた。このような会社だったから社業の躍進ぶりはめざましかった。しかし、第二次大戦という不慮に会い、樺太という商圏を失ったものの、ただちに道内の販売網を確立するなど短い同社の歴史のなかにも栄枯盛衰はあったが、商人としてその頭の回転は素晴らしい。

 その一例として、昭和二十一年軍から静岡の輸出業者にムリ押しされた紅茶二車分を引き取り、機をみて(三年のち)東京の三越デパートでこれを販売すると、大きな反響を巻き起こした。さらにこれを足場に『将来東京に店舗を設けるときがきて後悔しないように…』と日本製茶を設立するなど、先行きの明るい商人だった。

 佐平はまた『オレは人なみになるまで政治に顔をつっこまない』と、商売一筋に歩んだが、二十七年には推されて商工会議所議員になり、三十六年の道博のときには三会場の茶の接待所を設けたほか、静岡から日本舞踊の師匠二人を招き、女給六十人に『ちゃっきり節』をおぼえさせ、連日演芸会館で踊らせるなど、道博を成功させた功労者の一人だった。

(敬称略)

小樽経済百年の百人㉖

北海タイムス社編

昭和40年7月29日