教育者タイプ 伊勢谷吉蔵

2024年04月24日

養父の財産を守り抜く

 『市議をしていた当時の吉蔵を知っているが、ともかく温厚な人がらで印象のよい人だった。青森生まれで演説はお世辞にもじょうずとはいえなかったが、まあ当時の市議としては学識者であった』吉蔵の借地人だった工藤修三はこう吉蔵の晩年を語っている。

 吉蔵は花園町東二丁目一帯の地主だった。いまのスパル座真向いの伊佐美小路は伊勢谷の伊からとったもので、一名伊勢谷小路ともいわれた。ある日地代金の値上げを宣言したが、これに対抗して伊勢谷借地人会ができ何回も話し合いをしたが、結局値上げをして伊勢谷の土地はほかの地主より高いという定評があった。しかし吉蔵の性格がにくめないタチであったからだれからもなんともいわなく、まあ人徳のある人だった。

 先代清吉はニシン場でもうけて手宮でホタテの乾物などは見たこともない時代であったから製品の見本を三井物産に納めたとき『これは菓子ではないか』といぶかられたほどであった。最初は地元で百六十匁(約四二六㌘)六十七円の相場だったが、たちまち評判をとって横浜へ出すとそれが十倍ぐらいの高値でとぶようにさばけるようになった。こうしてこのホタテの乾物で大いにもうけ数年のうちに富を築いた。

 吉蔵は明治二年四月青森県東津軽郡油川大浜うまれ、北海道に雄飛の計画を立て同二十三年七月小樽にやってきた。そしてのち清吉の養子となったが、初めは高田の姓を名乗っていた。当時小樽には手宮、量徳、稲穂、色内などに公立の小学校はあったが、まだまだたりない。ぶらぶら遊んでいる子弟が多かった。そこで吉蔵は同志とかたらい小樽の将来のためにと山田町に私立小学校を開校した。明治二十六、七年ころのことである。

 三百余人の児童を収容し、吉蔵も検定試験を受けて教壇にたった。本道屈指の大酒造家野口喜一郎や市議新谷専太郎らがこの高田学校の出身者であった。吉蔵らの始めた高田学校は年を追って児童数をまし、その校舎でとうてい児童を収容し切れなかったため、広く有志に訴え、明治三十一、二年ごろ校舎の新築にかかったが、思うように寄付金が集まらず請け負い業者から新築校舎の差し押えを受けた。せっかく苦心して経営してきた育英事業であったが、どうしても金のくめんがつかなく、ついに校舎を請け負い人に引き渡して学校を閉鎖した。

 そのときである。吉蔵は法律の知識が必要であることを痛感して上京和仏法律学校(法政大学の前身)に入学した。明治三十七年七月法政大学の第一期生として小樽に帰ってきたが、当時養父が始めていた貸し地貸し家業を継いだ。小樽に市制がしかれた大正十余年第一期の市議になって活躍した。

 『書道をよくし達筆家であった。決して事業家でなくどちらかといえば教育者タイプ。養父の財産を守りとおしてきた地道な人だった』と吉蔵を知る今藤幸治郎=花園町東二ノ一二=はこうその人がらを語っている。愛嬢キヨエ=東京府立第一高女出身=に一高、東大出の法学士…次郎を養子にもらったことも当時としては有名な話、次郎は逓信省などの官界で活躍、局長にまでなった人だった。吉蔵は昭和八年六十二歳没でした。

小樽経済百年の百人㉘

北海タイムス社編

昭和40年8月1日