清水町のアイヌの歴史②

2024年04月06日

②ニトマップに集落を築いたアラユク

 清水町でも縄文時代の人々の暮らしの形跡が出土しています。北海道では、弥生・古墳文化の代わりに続縄文文化がありました。その後半の6世紀頃から10世紀に、北からのオホーツク人の移民によって混血し、オホーツク文化、擦文文化を経て、北海道では13世紀頃に今のアイヌ文化の原型ができた形跡があります。

 

 近年の発掘調査やDNAの研究によると、北海道の縄文人のDNAは今のアイヌのDNAと繫がっていますが、関東地方の縄文人とはかなり違うのがわかっています。

 北海道大学の加藤博文教授は、「縄文時代に日本列島に住んでいた人達は縄文人とされるが、地方ごとに住んでいた人達は違っていたので『縄文人』という単一集団はいない」と説明しています。

 

 北海道の2千年前の地層で発見された縄文文化の海獣儀礼の跡で、今のアイヌのイオマンテ(熊送りの儀式)と同様に、海獣と鹿の頭骨が加工されていたのが確認されています。礼文島の浜中遺跡では縄文時代から18世紀まで4千年間の連続した住居の痕跡が確認され、17世紀の地層からは海獣送りの儀式に加え、現在のアイヌの伝統的な道具であるマレク(自在銛)やマキリ(小刀)も出土しています。そして、アイヌの言い伝えによると、今の十勝アイヌの祖先は、遠い昔に北海道のほかの地域から移り住んできたアイヌの人達だったと言われています。

 

 十勝地方の開拓時にこの清水町に既に点在していた幾つかのコタン(アイヌの集落)のうち、清水としての重要なコタンを築いたのは広尾出身のアラユクです。

 安政5年に探検家の松浦武四郎が「ニトマップ」というコタンを訪れた時に、アラユクは74歳、二男で次の乙名(おとな)(村落の代表者であり、権力者ではない)となるシルンケアイノは34歳でした。同年の「十勝史」の記録でニトマップの集落は6戸、男子18名、女子10名の28名であったとされています。

 「ニトマップ」は「水際に流木が集まる所」という意味のアイヌ語に由来するとされ、その当て字から「人舞」の地名になりました。

(出田)