清水町のアイヌの歴史③

2024年04月07日

③アイヌ民族の土地を奪った移民政策

 明治9年の記録では、シルンケアイノは52歳で、十勝の脇乙名(わきおとな)と記されている事から、十勝全体のアイヌの二番目の乙名でもありました。彼らアイヌにより本町の場所は「ペケレベツ(明るい川)」と呼ばれていたようです。

 明治35年に貴族院議長近衛篤麿侯爵が来道した際の公の直筆による日記に、「清水」と書いて「ペケレベツ」と仮名が明記されたものが残っています。本町が明治32年に開設された「ペケレベツ駅逓」から、昭和2年に「清水村」昭和11年に「清水町」となったのは、アイヌ民族が伝えてきた本町の場所の呼び名に由来しています。

 明治2年に十勝国は徳川慶喜がいる静岡藩及び徳川家などの支配地となり、その後、明治4年に廃藩置県が行われました。 明治6年、北海道の開拓使の十勝開放計画に対し、先に十勝に入っていた和人とアイヌが組合を作り、新たな和人の侵入を拒んだ為に十勝は開拓が遅れました。

 

 それでも和人による密漁で鹿は減少し、更に明治12年、大雪で鹿が冬季に植物を掘れずに大量に餓死しました。その死骸の腐乱で川の水が飲めなくなったほどの被害で、更に鹿の数が激減しました。

 そして政府が十勝の組合に開放を命じた明治13年を機に、和人が鹿猟と鮭漁でなだれ込み、十勝以外のアイヌも捕りに来て和人に鹿や鮭を売る様になり、突然の乱獲でほぼ全滅しました。

 このためアイヌの主食であった鹿は禁猟となり、同じくアイヌの主食であった鮭もアイヌは禁漁となりました。

 

 明治17年には屈足のコタンでも餓死者が出て、明治18年に伏古別(現在の西帯広)に土人開墾事務所が置かれ、一戸に一町歩(99㍍×百㍍)を与える政策がとられました。同年8月に、人舞を含む5ヶ所での農業指導が始まりました。ところが10月には、人舞のニトマップ、屈足のクツタルシ、鹿追のシカリベツの三つのコタンが芽室町の毛根(けね)の芽室太(めむろぶと)に移住させられての農業指導となりました。

 しかし浦幌の十勝太のアイヌが与えられた土地や、他にも多くあった例と同様に、毛根も洪水になりやすい地域で農地には向いていませんでした。

(出田)