清水町のアイヌの歴史⑤

2024年04月09日

⑤アイヌ民族の苦難の道 

 ニトマップコタンは長年、アイヌの人達が日高山脈を歩いて越える前の最終拠点として、重要な役割をしていた様です。

 当時の人舞村に住んでいたアイヌの人達が毛根の芽室太に移住させられた明治18年、シルンケアイノ(61歳)の二男サンクル(27歳)が芽室太で村長を引き継ぎました。

 大正5年に、「力量、見識に優れ、アイヌ間に人望あつく、また狩猟の名人とも知られた」サンクルが和名・赤簗三九郎(あかやなぎさんくろう)として、「珍しい三色の狐四匹を皇太子殿下に献納した」と新聞紙上をにぎわせました。

 昭和11年に82歳のサンクルが妻デコランと共に毛根で健在だった写真が残っています。

 広尾から来たアラユクのニトマップコタンの十勝アイヌと違っていた、石狩・旭川から集団で移住して来てサオロ(佐幌)やビバウシ(下佐幌)にいたアイヌ部族も、一緒に毛根へ移住した時から十勝アイヌに同化していった様です。

 十勝ではほとんどのアイヌの人達は人として扱われず、土地を奪われて貧困の中で和人から暴力に晒されてきた事が長くありました。それでも、和人が開拓の生活の困難から棄てていった和人の子供達をアイヌの人達は受け入れて自分の家族として育てました。特に毛根ではそれが多かったそうです。

 多くの和人がアイヌを騙して搾取していった昔は、「アイヌ勘定」というのがありました。

 数える数の「始め」と「終わり」に一つずつあるから、サケ10本として和人がアイヌから得る時に実質12本を得ていました。「真ん中」があるから13本の時もありました。

 屈辱的な差別や迫害から、アイヌである事を隠す人も多くなり、たくさんのアイヌの古い伝統が失われてゆきました。

 令和3年、東京オリンピック札幌会場開演パフォーマンスで行われたアイヌ舞踏出演者のほとんどでさえが、差別の困難に晒されながらもアイヌの誇りと伝統を護ってきた人達でした。

(出田)