清水町のアイヌの歴史⑥

2024年04月10日

⑥曾祖母・セイと山田利春

 北海道出身の作家、堀内光一の著書「軋めく人々アイヌ」(平成5年発行)に、清水町にかかわる十勝の開拓当時からの様子も記録されています。

 

 その概要は、明治16年4月、依田勉三ら13戸、山田彦太郎(33歳)と妻・セイ(27歳)、長男・健治(4歳)と二男・扶次郎(1歳)を含む晩成社の27名が、鈴木銃太郎が待つオベリベリ(帯広)に入植しました。

 困難な生活から去ってゆく者が多い窮地で、近辺からアイヌの人達が晩成社を訪れて小屋作り・新墾・再墾・播種・除草・収穫等に協力しました。

 銃太郎は明治19年、シプサラ(芽室町西土狩)のアイヌ女性コカトアンと結婚、明治22年に晩成者移民・高橋利八と共に、シプサラに新たに入植しました。

 

 山田彦太郎は43歳で病死しました。残された母子達は、アイヌの人達から鮭をもらったり、山菜採りを教えてもらって生き延びました。建治は父・彦太郎の酪農の大牧場をつくる夢を果たすために、大正5年に清水町美蔓地区に入植しました。

 そして晩成社の移民のうち、その当初の目的であった酪農の大牧場の夢を実現し、今に続いているのは昭和9年生まれの山田利春家族のみとなっています。

 

 利春は幼い頃から曾祖母・セイからアイヌに助けられたことを聞いて育ち、『おまえが大きくなって暮らしに余裕がつけば、困っているアイヌ民族に恩返しをするんだよ』と言われて育ちました。

 昭和63年、利春は帯広市役所の窓口で『自分は晩成社移民団の四代目で、開拓の頃に先祖がアイヌ民族に助けられた。今アイヌの人々が困っていると聞く。わずかだが、彼達のために役立ててほしい』と現金10万円を渡していきました。その様な例は他に無いと言われています。

(出田)