鮮烈な野性味 竹田清治

2025年06月04日

〝人間愛〟で多角経営を

 『竹栄』社長。まさにこの人の歴史と現在の地位を象徴するにふさわしい肩書だ。

 『仕事熱心なすばらしいファイトでがんばり抜く…これが金もうけとなるわけで、それを地でいっている人だ。とかく繊維業界というものは大阪商人に似て、人間はこじんまりしているが、竹田社長は近代的なセンスを持ち幅広い実業家である。また常に人間的成長を心がけている小樽では数少ない経営者の一人』と、清治の人柄を同業者の森川才一はこう語る。

 商都小樽には立志伝の人が数多いが、清治の実業家としての地位さらに人間、風格からしてトップクラスにランクされる。すでに還暦を終わった人とは思われない野武士にも似た野性味。二代三代の坊ちゃん社長の多い小樽にあっては、とくに清治の魅力が鮮烈に感じられる。

 清治は和歌山市で紀州ネル製造業者の家に生まれた。大正十年、満十八歳のとき販路拡張のため青雲の志を立て本道入りした。ところが本道の雄大さと将来性にすっかり魅入り『おれも男だ。ひと旗上げてやろう』と、ニシンで栄えた小樽に竹田商店を構えた。従業員は四人。若さに物をいわせガムシャラに働き業績を上げていった。

 昭和十六年、統制経済になった。市の要請により道内の繊維問屋も合体化しなければならなかった。『組合は札幌に設置しよう』と発言した人がいた『反対だ。小樽には繊維問屋としての大きな実績がある。また軍服工場も小樽にある以上、組合本部は小樽に置くべきだ』と清治は強調した。激しいやりとりがあったが、結果は清治の主張が取り入れられ組合本部は小樽市に設置された。このとき、手腕と人望から四十歳の若い清治が押されて道布綿製品卸商組合理事長、道被服工業協同組合専務理事に就任した。被服組合の理事長は当時小樽市長だった寿原英太郎がなったため、実務は清治が一人で切り回すことになり〝北部司令部の衣料と五百万道民の衣料配給〟に専念した。

 戦後、二十五年統制経済が撤廃された。清治はただちに両組合を統合、竹栄と竹田被服工場を設置してスタートに踏み出したが、資本、信用、仕入れ、販売とあらゆる条件が整っていただけに、自由経済に突入したなかでの清治は幸運児であった。竹栄はこれをバックに、まさに破竹の勢いで社業を拡大していった。

 清治はよく人の意見を聞く『私が関係している業界のことしかわからんもんな。広く交際しているといろいろな話を聞き、なんらかの形で勉強になるから…』と大きなゼスチャーで語る。とにかく小樽の経済人は利用するだけ利用して、あとは振り向こうともしない傾向が強いなかで、いつでも快く迎えてくれる。清治の人間愛が『彼の魅力だ』と清治を知る人たちはいう。

 繊維のマチ小樽のリーダーからいまでは不動産、ホテル業へと幅広い経済通になった清治は、この不況経済のなかでいずれも収益を増伸するという経済能力を発揮、いまや押しも押されぬ小樽経済界の重鎮の座についた。しかし、清治はこのままでとどまることなくその実力を大いに示していくことだろう。

(敬称略)

小樽経済百年の百人㉟

北海タイムス社編

昭和40年8月12日