スキー界に旋風 技術開発を率先 見沢松吉
2026年08月16日

『非常に誠実で努力の人。この一語につきる。まただれにでも愛される人です。一歩一歩着実に現在の地位を築きあげた堅実型でもある。労使関係でも話し合いで解決してゆくタイプ。個人的にはよく仕事をし、よく遊ぶ型で飲んで歌いだしたらキリがない。どんな民謡でも知っており、とにかくほがらかなタチですよ』と友人の山本勉北海道通信電設社長は松吉の人柄をこう語っている。また櫛野三興木材社長は『仕事熱心な人で技術開発によく目を向け、」スキー界に新風を巻きおこしたことでもわかる。同業界でも一等地を抜いていますよ』と松吉の経営するアジアスキー工業所と桜町の合板スキーを絶賛している。
『企業は人なり。まず和をもって企業を発展させよ。そのためにはよく部下を愛せ』これが松吉の口ぐせである。〝みんなで仲良く会社を盛りたてていこう〟と会社経営には社員の意見をよく入れた。最近健康のためにゴルフをと心がけているがなかなかいそがしく『まず仕事第一』というわけでついついゴルフを手にすることができない。それほど仕事の鬼として有名だ。
フル生産すれば合板六万台、単板四万台の能力を持ちもちろん道内スキー業界のトップをゆく。日本全国でも五指にはいり全国スキー工業の副会長もしている。
明治四十一年十一月二十三日利尻で漁業と海産業をしていた此吉の長男として生まれた。大正十二年、十六歳のときニシン漁の将来に不安を感じて単身小樽にやってきた。そして入舟町の本多家具問屋にデッチ奉公した。家具の荷造りから倉庫係をして二十歳のときセール販売に出された。道内と樺太に商権を持っていたが、冬至の家具販売は競争も激しく朝五時一番列車に乗って出かけ、夜中の一時ごろ帰る暮らしを続けた。こうした苦しいセールス活動の経験を経て樺太を担当するようになった。
酒を覚えたのもこのときだ。当時樺太の奥地にはもちろん鉄道はない。冬の交通といえば馬ソリだけ。途中ふぶきに会い馬は倒れ命かながら目的地に着いたこともあった。ものすごい寒さのためやはり酒を求めるようになり、よく馬ソリに一升ビンを積んで飲んだ。この一升ビンがあったため助かったこともあった。
本多家具問屋は昭和七、八年ごろからスキーにも手を出したが、この販売をまかされた。これが松吉をスキー製造に走らせる基ともなった。昭和十六年主家の応援をえてスキー専門の有限会社アジア商会をつくった。戦争中は軍隊用のスキーを製造していたため閉鎖をまぬがれた。それにまつきちの幸運だったのは終戦五日前に召集令状がきたが、十日間猶予してもらい終戦を迎えたこと。このとき召集令状を受けた人たちは全員樺太へ行ったという。
終戦後、荷造り、発送と自分でやっていろいろ苦労したが、従業員も帰ってきて、ようやく統制もはずれスポーツ用品も時代の波に乗り出した。○○うち二十五年、製造を分離しようというわけでスキーの本体づくりを始め、合板スキーの良質なものをつくろうとよくがんばった。販売先を本州方面にも広げ、工場は毎年大拡張のし続けだった。そうこうしているうちスキーの輸出に手を伸ばすようになり三十六年アジア合板スキーを設立した。現在年生産は合板五万台、単板三万台である。松吉は『フル生産すればあと一万台ずつふえるが、ムリをしないことにしている』といっており、ここにも松吉の地道な人柄がうかがい知れる。
小樽経済百年の百人
北海タイムス社編
昭和40年6月16日~昭和40年9月2日連載
そば会席 小笠原
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