仕事の鬼で成功 小倉義徳

2026年09月10日

常に前向きな近代経営

 『細心大胆』『一歩先明、一歩先行』このことばをモットーに戦後の混乱の中、一介のアメ、ガムのかつぎ商売から道内第一の菓子問屋にのしあがった非凡な男…これが小倉義徳の横顔である。

 水野商事の水野清社長は『とにかく物事をドライに割り切り、仕事、仕事の一本ヤリでやってきた人。ファイトがあり、常に前向きの姿勢でやり遂げる…こうしたことが成功の道につながったのだろう』また野村商店の野村金蔵店主は『非常に誠実味のある人で約束ごとは必ず守る。なにごとによらず積極的に仕事を進め、たいへん実行力のある人である』とそれぞれ義徳の仕事の鬼ぶりを語っている。

 義徳はよく従業員を大事にして『従業員あっての会社』と奥沢に社員住宅十戸を建てたり、また食べ物商売としておいしいものを仕入れる必要があるとして、この太いパイプになるため、従業員の励みになるようにと、支店を数多くふやした。近代的な経営感覚をどしどしとり入れてきたが、こうした義徳にも古い一面を物語る次のような逸話がある。

 戦後二十五年というとまだやっと会社組織にしたとき、母チヨは『大事な人さまの財産を扱っているのだから金庫を用意しなさい。神仏を信心しなさい』と義徳をさとしたが、これに義徳は『もっともなこと』と賛成して、当時苦しい経営の中をいまある大金庫を買ったほか店内に神だなを設けた。ただガムシャラな経営者では決してない。新しい経営の中に古きよきものを取り入れていく…これが義徳の商道なのである。

 大正八年八月十三日生まれだからまだこれから大いに活躍できる人である。家業はもともと樺太の真岡で菓子製造販売をしていた。父義三郎は青森で農家をしていたが、大正二年志を抱き樺太へ渡り、二年ほどして始めたのが菓子商売。キャラメル、カリントに手を出してなかなか繁盛した。

 真岡中学を出た義徳は店の商売を二年ほど手伝ったが、現役入隊で軍隊生活を送り、除隊したのは昭和十八年である。すでに父はなく『そう、最初はどうしようかと考えましたが、やはり樺太を選び、ここの水産会社真岡支店に勤めた。終戦の年の六月係長になったが、八月には終戦、このとき上級幹部は全員引っぱられ、係長の私が真岡の二工場とカマボコ一工場の経営を任せられた。まだ二十六歳でしたが、二、三百人の従業員を使ってほんとうに勉強になった』と樺太時代のことを語っている。

 日本に引き挙げてきたのが二十二年十月、『当時引き揚げ者として三百円の金しか持っていなかった。』最初余市に落ち着き、さて何かしなければということで、ひとまず東京に行った。上野に有名なアメ屋横丁があり、ここに当時としては珍しいものばかりがあった。弟から二千円ほど借りてきたので、汽車賃だけを残してアメ、ガムなどを買い余市に帰ったが、一銭店屋で倍に買ってくれた。そこで余市―東京間のピストン輸送を始めたが、これで大いにもうけ、二十四年には小樽に進出、店を設けて菓子の卸し商売にはいった』このあとは義徳独特の商法で業界の信用を得ていった。

 『なにしろ当時は現金商いの時代でした。これを釧路、帯広、岩内、倶知安などに足をのばして貸しにしたのです。大いに喜ばれて取り引きをしてくれた』こうして商売は順調に進み、発送部を設けたほか駅前、色内、余市、札幌、函館、苫小牧、旭川に店舗をつぎつぎ作っていった。いまでは資本金二千万円、小倉商店だけで年商十七億二千万円にのぼり道内第二位の菓子問屋を十億も引き離している。このほか札幌、苫小牧でカリント、バターなどの製造、自動車の修理、自動販売、市場などにも手を出し多角経営にのりだした。いま道菓子問屋協会長、全国菓子問屋協会副会長と同業界の重鎮として期待されている。

(敬称略)

小樽経済百年の百人

北海タイムス社編

昭和四十年六月十六日~昭和四十年九月二日連載