“魚祭り”音頭取る 渡辺熊十郎

2026年09月11日

ファイトで地位築く

 『まったく竹を割ったような性格で、隠しごとなどさらさらできない人です。これと思ったことは自信をもってやり遂げる。こうした実行力がかわれて、小樽鮮魚仲買連合会長を三十四年からやっている。朝三時ごろからいまでもセリにでており、よく働き、物好きなほどよく動き回っている。このファイトが今日の地位をえたのでしょう』というのは小樽鮮魚小売商組合小林栄太郎組合長=市議=の熊十郎評。

 また山本勉北海道通信電設社長は『彼のえらいところは多くの鮮魚水産業者をよくまとめて、したわれているところだ。これはちょっとマネができません。それに人のめんどうをみる人で、いわばだれからも愛されている。宴会などでは進行係としてこの人の右に出るものがないほど定評がある』とも熊十郎の人柄を語っている。苦労人ではあるが、その苦労のかげすらないという明るい性格で、魚問屋商売に似合わない温厚な人でもある。九つの部会からなる鮮魚仲買連合会の調整役としてうってつけ。業界の自力で主催して、年ごとに盛んになってきた。〝小樽魚祭り〟もこの人の力によるところが大きい。

 熊十郎は明治四十一年十月二十九日祝津で生まれた。先代熊吉は新潟県で漁業をしていたが、一旗あげようと祝津に落ち着き、祝津漁業信用販売購買組合の初代組合長になり、卸売市場などを経営した。

 熊十郎は毎日のセリ市を見ているうち『よし、オレも魚の商売にはいろう』ということで、祝津小を出ると、祝津市場の仲買人になった兄金作の手伝いを始めた。独立したのは昭和五年四月、二十三歳のとき。高島漁業信用販売組合の仲買人になったが、なにしろカケ出しで苦労した。しかしこのかいあって二年後には高島仲買人組合の理事、十六年統制下にはいり鮮魚配給会社が発足、荷部門を受け持ったが、次いで漁業協同組合が設立されてこの出荷部門を担当した

 『戦後二十二年に統制が解除されたので漁協組をやめ、単独で商売を始め、魚問屋を設立した。当時道路は悪く、車もガソリン車だったが、思い切ってディーゼルエンジン車の車に切り替えた。これで道内を走りまくったが一年間で油代だけで百五、六十万円も節約ができ、これが当たった。こうしてディーゼル車を五台にして魚を売りまくったがおもしろいほどもうかった。一例をあげると大漁のとき、底値で買い入れ、これを冷凍にしてシケのとき出荷すると、二、三倍の値で売れた。とにかく朝早くから起きて働いたものです』熊十郎は戦後の商売をこう語っており持ち前のファイトで今日の地位を築いた。年商二億円。小樽鱗交移出組合長もしており、小樽の鮮魚仲買を代表する人物として大いに期待されている。

(敬称略)

小樽経済百年の百人

北海タイムス社編

昭和四十年六月十六日~昭和四十年九月二日連載