父の研究を結実 斎田英一
2026年09月15日

当たった帆の巡回修理
『人は和…いわゆる仲良くするということ。これが社会生活をつづけていくうえで大事なことではないかな…』製帆業から天幕、防寒用具救の製造とその商売を広げていった斎田工業の専務(代表取締役)英一は開口一番こう語る。
資本金八千万円、従業員百三十四人年商八億円の道内有数の業者にのしあがった同工業は社長治三郎とその長男英一の力によって大をなしたといって過言でない。
英一を語るには父治三郎のことにふれねばなるまい。治三郎は宮城県古川の農家に生まれ青雲の志を抱いて大正六年に渡道、体操が好きで宮城県では体操の塾に学んだ。これを生かして小樽で巡査になったが二年ほどして斎田家に見込まれ養子にはいった。斎田家は明治十七年に石川県から小樽に落ち着いた松太郎が祖で、同二十二年に漁船の製帆販売を始めた。こうして治三郎が養子にはいったときは、まあ帆をつくる店として基礎固めができたときだった。
治三郎は店を引き継いで『人のまねのできないもの、社会のためになるもの』の二点をモットーに、昭和の初めに帆からこんどは一般天幕に手を伸ばしていった。
英一はこのときのことを『父は北海道の開拓はこれから、天幕はきっと将来受けるということで始めたものです。次いで第二段階として冬の寒地向け衣料について研究した。これは軍の要請もあったので手をつけたのですが、これは戦後七、八年たって当たりましたね。アノラックの製造はまあウチが元祖です』と語っている。
英一は大正九年九月二十九日生まれ、小樽商業をへて拓大に学び、昭和十六年十二月に繰り上げ卒業して学徒出陣、終戦の年、十月に復員してすぐ家を継いだ。
『拓大を選んだのは家業を継ぐというより、満州へ渡りたかったのと、またオヤジゆずりの相撲をやりたかったからです。それがどうもそうはいかなくて、家へ戻ると父は〝きょうからお前に商売をまかせる。思う存分やってみろ〟と四万円ほどの預金通帳に印を渡してくれた。二十三年、株式会社組織にした。父は社長で東京に住み、私は専務で小樽の業務責任者となった』こうして英一は戦後の油のない時代を迎えて、ふたたび昔の帆の巡回整理をしてこれが大いに当たった。 『でも二十六年に統制が解け、漁業界の仕事は不振だったので商売も思わしくなかった。これがしばらくつづいて苦労した。しかし父の始めた防寒衣料が認められ、テイジンのバックで国鉄など全国各地でとり入れられた』このあと商売は順風満帆。救助袋も三十三、四年ごろにかけて大いに売れた。斎田工業は一名斎田テントという名前で、治三郎の考案したアノラックや救助袋は英一の新商法でよくさばかれ、日本全国の各官公庁でも採用された。治三郎と英一の関係は、治三郎がタネをまいて、英一が刈り取るというシステムで、東京―小樽を結んでいる。
『私はどちらかといえば正直すぎて、商人に向かないとよくいわれましたが、オヤジの研究がいろいろ実ってなんとかこぎつけることができたわけですよ』とその成功のカギをこう語っている。



(敬称略)
小樽経済百年の百人
北海タイムス社編
昭和四十年六月十六日~昭和四十年九月二日連載
~おしまい~
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