戦後の寿原家

2026年10月24日

1.昭和初期の寿原九郎一家

 寿原家ゆかりの雛人形・五月人形が札幌の雛人形司・山田祐嗣氏に寄贈されたのは、2017年春のことだった。寄贈した寿原純子さんは、明治に小樽に渡って繁栄の礎を築いた寿原三兄弟のうち、小間物店を開業した猪之吉から3代目にあたる九郎の長男良高氏の夫人(図1・系図参照)。前回のべたように、九郎は戦後の昭和30~40年代に寿原商事・寿原薬粧・北洋相互銀行の社長を兼任した人物である。寄贈された人形とゆかりの人々について、山田氏が純子さんから聞いている話をもとに述べていきたい。

 九郎が小樽高商を出て三井銀行に入行後、寿原家に入ったのは昭和4年。猪之吉の寿原小間物店を受け継ぎ寿原商事(株)に発展させていた英太郎の長女・秀子の婿としてであった。大正・昭和初期の寿原商事は、和洋小間物店時代のメリヤス・帽子から洋反物に目を付け繊維業へ発展。裁縫工場、東京・大阪に支店、のちに寿原薬粧として分社化する薬品部の設置など事業を拡大、商圏は北海道のほか樺太。関東・関西・朝鮮に及んでいた。大正13年には入舟通に鉄筋コンクリート3階建てのビルが建ち、、この本社ビルは昭和63年に解体されるまで寿原財閥の象徴として大正近代建築の遺風を漂わせたと『小樽市史』にある。

 英太郎は同時に小樽無人(のちの北洋銀行)及び共成(株)の社長、昭和7年には衆議院議員と活躍は多方面にわたり、九郎はそうした寿原家に入って長男良高、二男雄二、長女和子、三男忠彦が生まれている(図2)。先にのべた人形たちは彼らの節句に際して用意されたもので、「財閥」寿原家の子女にふさわしい名品である。

2.良高氏の兜飾りと和子さんの雛人形

 九郎の長男良高氏は昭和5年生れ、東大工学部を卒業後、建築の仕事に携わったあとに寿原産業(寿原商事が昭和18年改称)へ。のちに寿原産業・寿原薬粧の社長となっている。

 …。

 

3.戦後の寿原家

 昭和10年代は戦時体制となり、盛んだった小樽繊維業界も統制下で苦戦を強いられたが、寿原産業は関連会社の凰星被服工業が軍の指定工場となり、軍服をつくる軍需工場に切り替えて生き延びた。戦後、英太郎が小樽市長となった昭和22年に九郎が社長に就任、統制解除とともに東京・大阪の支店も復活、戦後の景気もあって業績を躍進させていった。

 北大理学部教授太秦康光氏の次女・純子さんが良高氏のもとに嫁いだのは、昭和30年代のことである。二十歳そこそこでお嫁に来た純子さんは、やがて和子さんが嫁いでゆく際、稚児雛を「毎年飾ってね」と託されたという。

 しかし昭和54年、当時九郎会長・良高社長の寿原産業は24億の負債をかかえて倒産。昭和50年の57億をピークに売上は下降、繊維業界の不況による売れ行き不振と売掛のこげつきが主な原因だった。分社化していた寿原薬粧もこの後も続いていくが、寿原産業は猪之吉が小間物店を開業した明治22年から操業90年で幕を閉じる。このとき九郎は北洋相互銀行の怪鳥であったが、北洋から一円の借金もしておらず私財5億を処分して夫妻に当てる潔癖さが当時の『財界さっぽろ』に報じられている。この際に処分された奥沢の寿原邸は、大正3年に英太郎が購入し昭和12年に大工事をして裏庭の高台に28畳の仏間を増築、蔵が2つある大邸宅だった。英太郎も九郎も造詣が深かったことから美術品の類もそうとうあったと思われるが、その売却については東京の古美術商を呼び九郎自身が再拝したという。私財を整理して札幌へ移ったが、このとき人形は処分されなかったのは幸運だったと思う。

 のちに純子さんは、実家の太秦邸の解体に際して太秦家伝来の節句人形も受け継ぎ、これらもまた山田氏に寄贈されている。旧華族の太秦男爵家に伝わる人形たちもまた、物語をまとった名品たちで興味深く、次回紹介したいと思う。

4.秀子さんの雛人形

 さて昨年秋、寿原一族に連なる別の女性から、九郎夫人・秀子の雛人形が急寿原邸に寄贈された。

 苦労は英太郎の長女・秀子のもとに婿入りしているが秀子は…

 

月間 小樽學

2023年年2月号

第14巻第11号通巻167号

令和5年2月10日発行

発行:特定非営利活動法人 歴史文化研究所

より

 

『先月 寿原九郎氏のお孫さんが来店してくれました ☻』