「樽僑」と呼ばれた男たち

2014年08月05日

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 一八八七年(明治二十)生まれの喜一郎は、小樽経済が龍のように舞いあがっていく時代とともに成長している。小樽~札幌間の鉄道開通が一八八〇年(明治一三)小樽港が特別輸出港に指定されたのが一八八九年(明治二二)。その四年後に日本銀行の支店が置かれた。さらに、一九〇五年(明治三八)に日露戦争が終結し、日本は南樺太の領有とロシア沿岸の漁業権を獲得した。樺太国境画定会議は、小樽の日本郵船の建物で行われている。樺太の豊かな森林、水産、鉱物資源の開発のために樺太庁が設置され、小樽から樺太への定期航路が開かれたことで、資材、生活物資が小樽から荷積みされ、小樽商人の利権は大きく膨らむ。

 

《わたしが初めて勤務した地、稚内。百年記念塔で展示していた”樺太での戦前の暮らしの資料”の数々を見て。「まったく日本と同じだ。日本の街ができていたんだ。」と、衝撃を受けたことを思い出します。私の出身の町に豊原という地域がありました。樺太から引き揚げてきたんだよ。と、小さい頃、聞いた記憶があります。もっと話を聞いておけばよかったなあ。当時は、日本最北端の市、豊原市でした。》

 

喜一郎も酒造業を軸に、卸業、倉庫業、ホテル建設、合同酒精の経営引き受けなど、果敢に事業を伸ばしていった。さらには北樺太や黒竜江河口に一番乗りで出店し、繊維、日用品を売りさばいて財を成した。シベリアの金鉱王に物資を送って代金は砂金で受け取るも、日本軍のシベリア出兵撤退で店舗を丸ごと放棄し大損害を被ったと、世界を又にかけた商いを喜一郎本人が述懐している。まさに樽僑だ。

 P.5の写真の喜一郎はこうした疾風怒涛の経験を積んだ四十四歳の男盛り。押しも押されもせぬ当主の風格が備わっているのも、うなずける。

 

きら星のような殿様たち

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CIMG4372先日、和光荘を見学中、4代目 野口禮二氏よりいただいた冊子

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4代目禮二氏(和光荘生まれ)によると「喜一郎は大正時代、小樽郊外にロータリーのある宅地造成を計画するなど先進性に富んだ人だったとも。」

 

《そう桜のロータリーです。小樽桜町≒田園調布ですから‼ このとき銀鱗荘も移築されたそうです。さらには、モノレールを走らせる計画もあったとか、、、。》

 

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興味のある方は、店でじっくり読んでください。