手宮 十間坂で

2014年08月23日

DVC00077.JPGの大雨もやみ

DVC00076.JPG今日は催し物があちらこちらで

DVC00073.JPG水天宮山は古墳の址 アイヌの社址 ということを

DVC00070.JPGどちらも本当だと私は思っています。

 

DVC00071.JPG南浜 有幌の倉庫群 観光客はほとんど訪れません

 

DVC00067.JPGその一~かま栄「海神祭」 運がっぱも

DVC00065.JPGかまぼことコーラ

DVC00059.JPGトクナリ&サトシ 「はなぞのばし」をうたう (FMおたる 火曜夜10時 サタデーナイト jazz 出演)~私は睡眠中。

CIMG1312はなぞのばし

DVC00055.JPG旧板谷邸

 DVC00050.JPG運河クルーズも盛況

DVC00051.JPG「運河を埋め立てる前をごらんになったことはありますか?」

「いいえ。」

「ず~っと、倉庫が並んでいたんですよ。、、、。」

DVC00040.JPGその二~真夏の北運河サウンドエナジー

DVC00039.JPG倉庫群をバックに聞く音楽も良いもんだな。

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DVC00037.JPGあら やちよさん こちらで司会していたんですね。

DVC00036.JPG蘭島発動機にも出演してほしかったな。

 

DVC00033.JPGDVC00032.JPGの三~手宮ビアガーデン

DVC00030.JPG目的地~十間坂

 

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DVC00025.JPGの てっぺんから 見た景色

「昔はもっと車が並んでいたんですよ。」と 地元のカメラマンの方が。

「ほんと見飽きない景色ですもんねえ。」~はるか向こうには小樽稲荷神社への道も。小樽公園と水天宮の道 のような、でも。

 

CIMG4691稲荷神社からの景色

 

DVC00017.JPGりは向こうだっ。

「あ~よっちゃった。帰ろう。」

どうして、コーラで酔うんですか?

ムフッ。 !(^^)!

 

 

おたる 坂まち散歩 ~荒巻山と十間坂~

市街地から手宮方面に向かうバスは、荒巻山をう回して進みます。荒巻山は、地主である荒巻家にその名が由来し、明治から小樽の発展にかかわってきました。この荒巻山の手宮側、錦町と石川町のさかいに位置する十間坂は、手宮仲通りから荒巻山に向かって上る坂です。道幅が百貫法の十間(約18メートル)あることから、その名が付けられました。明治のころ、手宮地域では頻繁に火災が起きたため、延焼を防ぐ防火帯として幅を広くしたものです。防火帯としての名残でしょうか、坂の下には、火の見やぐらが建てられ、先端部の風見鶏が、風に吹かれて待っています。

 十間坂を上ると、人が通るのにやっとの狭い道になり、さらに進むと、荒巻山を越えて色内へと出ます。ここは、かつて道路となる予定の道でした。明治38年(1905年)、稲穂、色内から荒巻山を開削し手宮へと出る道路を整備する計画が、当時の小樽区議会に、初めて提案されました。しかし、これ以降も、活発な議論が交わされる中、幾度となく審議が重ねられましたが、今もってこの道路は実現に至っていません。

 この道路の計画案にはトンネルを掘る案もあり、さらには、周辺を整備し、公園を造成する計画もありました。もし、荒巻山に道路やトンネルができていたら、十間坂は坂ではなくなり、周辺の車の流れはもちろん、まちなみも大きく変わったことでしょう。

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『明治12年(1879年)張碓の難所 神居古潭に車馬道を5か月で作るという技術をもってすれば、荒巻山に道路を通す工事は可能だったことでしょう。

 

 明治30年(1897年)4月 小樽築港第一期工事着工

 ↓ 明治37年(1904年)日露戦争 翌年終結

 明治41年(1908年) 延長1289メートルの北防波堤が完成。

 

 戦争需要は結果的に、小樽商人に財力をつけさせ、私財をもって公共事業や多大な寄付で小樽に貢献していた時期でもありました。道路をつくるしたら、

この時期だったのでしょう。』