なぜ幻の魚に(二)

2014年09月17日

 各沿岸の鰊漁業者にとって、鰊の来遊接岸は実に重大な関心ごとである。もし不幸にして凶漁で漁期が終わったなどということになると、俗にいう『かまどかえし』といって倒産することになる。漁期になると鰊関係の報道に神経をとがらせているのであった。

 北海道立中央水産試験場では、沿岸の水温観測に小樽の高島のほか寿都、沓形など数カ所に観測所を置いて、何十年もの間、毎日の水温調査を続けてきた。とりわけ高島の観測所は明治三十二年(一八九九年)から開始され、昭和三十四年まで六十年間にわたって続けられ、北海道内で一番歴史のある観測所である。

 しかし沿岸の水温だけでは充分とはいえないと、水産試験場は沖合の観測も行った。春波荒い季節から探海丸、白鷗丸などの試験船が沖合で水温を観測し、流し網で鰊の回遊状態を調査した。そして鰊漁期中、毎日の新聞に沿岸、沖合の水温をはじめ、流し網で漁獲された春ニシンの状態を詳細に報道した。

 鰊漁業者は試験場発表の新聞報道で確実に近い鰊の回遊の動きを知ることができた。これらの報道で鰊関係者は有形無形にどれだけ恩恵を受けたことであろうか。

 また試験場は翌年の漁獲予報も発表した。各地域の鰊漁業者は翌年の着業準備に当たり、資金の手当てから、漁夫の雇い入れまでの対策をある程度安心して進めることもできたものである。それだけに水産試験場は苦労の伴う責任の重い仕事に取り組んでいた。

 当時北海道立中央水産試験場に資源部長をしていた平野義見氏という人がいた。後年 鰊の神様 といわれた人だが、この人の調査発表は実に正確であった。私はいまでも平野さんの当時のことを懐かしく想いだす。

 このようにして何年、何十年と繰り返して北海道西海岸の春鰊漁が続けられてきた。その間に運よく一代で波に乗り、巨萬の富を得て身代を大きくし、 鰊大尽 といわれた人、一攫千金を夢見てスッカラカンに落ちぶれて姿を消してしまった人、どうにか親子代々同じ道を進んできた人などと、鰊をめぐっていろいろの人生模様が描かれた。

また蝦夷といわれた時代から、北海道となった後も、この土地の大きな産業として栄えた鰊。蛋白質食品として北海道の人々に大きく貢献してきた鰊であった。

 

 

 

 

DVC00002.JPG『喜びと嘆きの八十年~昭和十二年の春鰊漁まで数えても安政、万延、文久、元治、慶応、明治、大正、昭和の八代、期間にして約八十年になる。

 この間、一年の休みもなく熊碓、張碓(小樽市)、ルーラン(厚田村)などの沿岸で三ヵ統から四ヵ統の鰊網を建て込んできた。

 わが家の八十年の歴史は、鰊の豊漁で喜び、不漁を嘆く繰り返しでもあった。

 鰊漁場で生まれ、鰊漁場で育った私の人生も、鰊と共にあったといってよい。だまっていても鰊漁場の経営や漁獲、製造技術などを覚え込まされたものだった。』

 

 

DVC00002.JPG熊碓の浜で見つけたガラス玉