なぜ幻の魚に(六)

2014年10月13日

 昭和二十九年を最後として北海道西海岸から姿を消したといわれる大規模な回遊性鰊は、その後、小規模ながら苫前方面では三十二年頃までいくらか獲れていた。その後、石狩湾内では厚田を中心に鰊漁がみられるようになった。だが、この鰊は、従来からの北海道・カラフト系のような大きな移動回遊をしない局地的の鰊といわれる。一般に石狩湾内の鰊と呼ばれていた。

 この石狩湾の鰊も昭和三十五年を境としてみられなくなったが、昭和三十八年に厚田で問い網したところ一.八㌧の漁獲をみた。これを契機に三十九年に二十㌧、四十年には十八.六㌧の水揚げがあり、昭和四十一年には石狩湾全体として五十五.三㌧、四十二年には七十二.八㌧と近年としてはかなりの量に達した。

 この鰊は、ほとんどが厚田で、ほかに小樽の一㌧、茂生(浜益村)の三㌧などが含まれている。また鰊の内容は産卵鰊が全体の七十二.六㌧、小鰊が〇.二㌧で、産卵鰊は三年生と四年生である。

 ところが昭和四十三年には八㌧と急激に低下した。今まで漁獲した場所は主に厚田が中心で、刺網と建網である。初めは厚田で獲れ以後南の方に移っていくといった経路であった。

 昭和四十四年から五十二年までの漁獲高は上記の通りであるが、今まで一番多かったのは昭和四十六年の九十一.八㌧で、次いで昭和四十二年の七十二.八㌧となっている。

 北海道立中央水産試験場ではこの石狩湾鰊について昭和四十一年から四十三年三月まで調査した結果、現在の石狩湾鰊は鱗相などから同一系に属すると思われると発表した。

 これによると初漁から漁期の長さおよび鰊の生活年周期が年によって異なり、産卵期が早化の傾向にあり、漁況、年齢組成から判断して、いくつかの群れに分かれて来遊することが推定できるとしている。

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CIMG6545小樽 石狩 厚田 浜益 増毛 留萌 小平 苫前の位置

 

 

DVC00002.JPG喜びと嘆きの八十年~翌日から熊碓の浜に沖揚げして身欠鰊、シメ粕の製造に取りかかった。だがあまりとれ過ぎて大漁貧乏の悲哀を味わわされた。作業も遅れて、若い衆の切り上げが六月中旬になった。

 収支は完全に赤字という記録が残っている。

 第二次大戦で、わたしもまる四年間、軍隊生活をしたため、わが家でも鰊漁を一時中断せざるを得なかった。

 昭和十八年に除隊してきたものの、食糧難で鰊漁まで手が届かなかったといってよい。