なぜ幻の魚に(七)

2014年10月21日

  また石狩湾鰊は今後高齢漁はあまり期待できないとし、昭和四十四年の鰊についていえば三年、四年漁が主群とならなければ漁獲量が増大しなかったであろうという。それは三年、四年漁の漁獲量は小鰊の出現量、年齢、構成と関係があるらしいと報告している。(北海道中央水産試験場資源部長三上正一氏の資料)

昭和五十一年一月二十七日に桧山沿岸大成町宮野の前浜のゴッコ刺網に鰊一尾が獲れた。全長三十三.一㌢、体重三百三十㌘、雌で数の子の重さ七十八.五㌘、春には産卵するであろうと思われる四年生である。

 さらに同年三月下旬に、江差町かもめ島南側の定置網に腹のものが完熟した数尾の鰊が漁獲された。また春鰊が全く来なくなってから、二十年以上も経った岩内町雷電や神恵内でも同年の三月~五月に数尾の鰊が混獲されている。

昭和五十二年四月六日、乙部港内の雑刺網で鰊一尾が混獲された。全長三十一.五㌢、体重三百七十㌘、雌で数の子百三㌘の完熟した五年生と思われた。前年大成町で獲れたものより体長は小さいが、体重も腹のものも重いのが特徴的である。

 かつて、北海道日本海側に来遊した鰊は、数の子の重さが体重の五分の一になると、産卵を開始していることからみて、これらの鰊の数の子はむしろ過熟気味で、本当に産卵直前に漁獲されたものと言えよう。

 ところで、檜山管内で鰊が本格的に来遊しなくなった最終年を調べると、奥尻郡で、明治三十八年(一九〇五年)、久遠、熊石および乙部で大正五年(一九一六年)太櫓郡で大正七年(一九一八年)、檜山郡で大正十年(一九二一年)で、どの沿岸も鰊が姿を消してから五十年以上にもなる。

 大成や江差沿岸乙部などで獲れた鰊はどこで生まれ育ち、どのような移動経路で接岸したのかわからない。だが、現在ややまとまって漁獲されている最も距離的に近い海域は石狩湾周辺であるところからこのあたりから南下したものであろうとも思われる。

 それにしても、どういう原因で桧山沿岸まで南下してきたのであろう。

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DVC00003.JPG喜びと嘆きの八十年~終戦後、社会事情も落ち着き、物資も豊かになってきたので、再度鰊漁に着手した。

しかし、もうそのころの鰊漁業は危険な職業だった。建網も少なくなり、比較的安全な刺網が多くなっていた。春早く刺網業者の問刺網にかかってきた鰊の状態を観察して一喜一憂したのもこのころである。