旗亭 海陽亭 その四

2014年09月23日

 芸者全部に日本橋白木屋で別誂えした衣裳を着せ、舞妓の踊り衣裳は歌舞伎役者をわずらわして作らした位だから、事は押して知るべき程で「どの位金がかかりましたことやら・・・・・。」と溜息ともつかぬ声音で老女将が語る程であるから察しがつこうというものである。

然しこうした成上りの金に飽かした豪遊というものは所詮それだけのものではあろうが、落語家翁屋さん馬(一時小樽に在住したことがある)が、これ程所作の小道具の揃っている所は東京にもないと白い頭を振る程のものを、何時の間にかととのえたものらしい。

 兎に角こうして、七十年もの間積み上げ練り上げて名料亭としての一種の格調が出来上った。

 正月の床飾り一つにしても炭蓬莱という、なんとも華麗荘重の極みなものである。茶の方から来たものらしいが詳しく弁えない。

 こうしたものが折り目正しく残され守られているがこれは大変なことなのである。

 というのはかつての海陽亭の上客は当然いずれも他界してしまったし、小樽そのものは日本郵船をはじめ一流の商社銀行が総引揚げをして藻抜けの殻になってしまっている。その上近くの繊維街もサバサバと小樽を見捨てて札幌に移って閑古鳥の鳴く街になっている。

 かくして海陽亭の上客は絶えはてた。

 その中で独り海陽亭が見識を崩さず、折り目正しく格調も乱さず門戸を張っているというところが名物と呼ぶ所以である。

 これは全く現代では大変なもので貴重とせねばならないものである。

 

タイムマシン小樽 田辺 順  月刊おたる  昭和48年3月号~48年12月号連載より~

 

 

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DVC00004.JPG眞~松本清張 その下は往年の名横綱、照国、羽黒山、双葉山の寄せ書き

DVC00003.JPG床柱に鉄刀木(たがやさん)据えた「松風の間」と野村文挙の筆による掛け軸~ THE JR  Hokkaido №305

 

DVC00007.JPG「明石の間」~日本建築の最上級様式である格天井の下に柱一本もない大空間

DVC00006.JPG「明石の間」に勢ぞろいした小樽の芸者たち

 

 

南樺太

稚泊航路~この航路が開けるまでは、小樽からの長い航路が主であり、加えて、激しい波浪が著しく本土と樺太の交流を遅滞させていたが、宗谷線開通とともに北海道の稚内と樺太の大泊との間は完全に省線連絡が出来た。大正12年5月1日のことである。・・・・・。4月より11月末まで毎日運行、12月から翌年3月までの冬季は隔日運航で、所要時間は夏で8時間、冬で9時間。東京の上野を発って稚内まで35時間、大泊港に連絡船が横づけになるや直ちに臨港鉄道がこれに直続し、豊原駅まで約1時間。つまり、東京から豊原まで〆めて二昼夜の旅だった。~望郷 樺太 国書刊行会より

 

CIMG6023亜庭丸

CIMG6024宗谷丸

CIMG6025大泊港

CIMG6026昭和8年ごろの大泊繁華街

CIMG6027南樺太全図

 

「稚内は札幌のような大都市になっていただろうな?」と感じたことがありました。

 

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