なぜ幻の魚に (八)

2014年10月29日

 

 南下を誘因したものの一つとして低水温だとすると、大成や江差、乙部などで漁獲された鰊が数尾に過ぎなくとも、環境の変化を示すひとつの証拠として貴重な情報となる。単に珍しいと言って、そのまま軽々しく見逃すことは出来なくなる。(函館水産試験場資源部長北浜仁氏の資料)

 日本の沖合鰊(鰊沖刺網漁業)は昭和三十二年から始められたが、昭和四十九年以後はオホーツク海での操業はほとんど中止され、樺太(サハリン)西岸でのみ操業している。これは小型鰊(二、三歳)が多いことなどで、採算が合わないのがげんいんのようだ。

 沖刺網漁業は例年三月から六月までを漁期として、漁場は昭和三十八年ころまでは主として北海道オホーツク側沖合と樺太南東岸沖合であったが、オホーツク海は三月下旬ころまで流氷にわざわいされたりして刺網の操業が以後オホーツク海南西部と樺太西岸の水域に変わってきた。

 沖合底曳漁業は以前より操業を始めていたが、近年底魚類の減少や経済的理由などから、春の鰊漁に着目し始め、沖刺網漁業とほぼ同じ海域において競合しつつ操業してきた。

 沖刺網は主に旧沿岸の春鰊の漁場地帯の北海道西海岸及びオホーツク海沿岸の鰊業者を転換漁業の対象として許可を与え、その許可隻数は昭和四十三年から百㌧以下で二百二十三隻が定数となっていた。しかし実際の操業隻数は減少し昭和四十八年に八十七隻、四十九年に五十三隻となってしまった。

 このことは沖刺網漁業の操業隻数が多いことにより、採算がむずかしいことを示しているわけで、資源量の少ないこと、漁場の狭いことなどによるものといえよう。

 ところでオホーツク海及び樺太周辺の鰊沖刺網漁業、沖合底曳漁業の最近の漁獲量並びに漁場は百六十八頁の通りであるが、まず漁場としては北海道オホーツク海沿岸沖では冬底曳漁業がおこなわれている。また樺太西岸と沿海州間のタタール海峡は北南にわたっては、冬底曳漁業と春沖刺網漁業、春底曳漁業の漁場である。さらに樺太南東岸沖では春沖刺網と春底曳漁業が展開されている。

 次に二水域漁獲高推移表(百六十八頁)をみると、昭和三十二年にオホーツク海、樺太南東岸沖の沖刺網の漁獲高は一万三千㌧台であった。

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 昭和四十年にはオホーツク海、樺太南東岸沖の沖刺網は六千台と半減し、底曳を加えても七千㌧台で、樺太西岸と合わせても一万㌧をやや上回る程度であった。

 その後の数字は両水域合わせても五千~六千㌧台を上、下していたが、昭和四十九年には樺太西岸で二年前の昭和四十七年の四倍以上の漁獲をみ、両水域の合計は一万六千㌧台となった。

 昭和五十一年にはオホーツク海、樺太南東岸沖の沖刺網はわずか二㌧底曳網は三千㌧台でまずまずの漁獲だったが、樺太西岸で沖刺網が八千㌧台と急激な伸びをみせ、底曳の方も九千㌧を水揚げしたことから合計一万七千㌧となり、両海域の合計は二万㌧の大台に乗っている。

 

DVC00002.JPG喜びと嘆きの八十年~昔は考えられないことで、鰊業者の深刻さを物語っていた。

 鰊が北海道の西海岸から姿を消し、そろそろ幻の魚といわれ出したころ、私はたまたま小樽市漁業協同組合の理事の職にあって鰊漁業の終戦処理に取り組んだことがあった。

 北海道の大宗漁業として幅をきかせた鰊漁業も、ひとたび漁獲がなくなると、みじめなものだった。

 大きな負債、なんの役にも立たなくなった漁網や漁船、漁具を抱えて悩み抜いていた沿岸の人たちの姿を思い出す。

 

 一昨日からたくさんのカモメの姿が、、。

CIMG7101の色が

CIMG7100潮目がはっきり

CIMG7105

CIMG7103今日は波も荒く 風も強く

CIMG7104でも そんな中

渡りの最中。

「お~い カモメ どこに行くんだい?」

♪なみ~に 聞け ちょい♪

CIMG7107高島にだけ 陽がさしていました