歩いてみました~明治15年当時の道を

2014年12月02日

CIMG7886今日から

♪冬が はじまるよ。ラララ らららららら♪

CIMG7888いてみたい道へ向かいました

CIMG7889うすぐ 小樽雪明あかりの路

 

スタート地点はここ

CIMG7890熊碓から続く道

明治15年の地図によると小樽の集落と手宮を結ぶ道は二つ。

最も海沿いに近い道を歩いてみることにしました。

CIMG7891勝納会館前の広い道を進むと

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そして

CIMG7894この道を

CIMG7896通って

クラーク博士が札幌へ向かったのでした

CIMG7897向こうは手宮

CIMG7898三本木急坂

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CIMG7904常夜灯~当時はこの辺りは海

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CIMG7910まだ久保商店も建っていませんでした

CIMG7911もちろん こちらも

CIMG7912於古発川

右がタカシマ場所 左がオタルナイ場所

二つの場所のさかいなので 堺町

CIMG7913銀行街の先へ

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CIMG7916田中酒造も過ぎて

さらに進むと

CIMG7920日本郵船 そして手宮・高島へ

田中酒造の所を左折すると

CIMG7921明治15年当時はもう

CIMG7922走っていました

手宮ー幌内間を。

CIMG7926塩谷街道スタート地点

CIMG7927先に進むと

CIMG7930小樽集落と手宮を結ぶもう一つの道

『第一大通り』も塩谷街道に繋がっていました。

 

実態調査(1992年)から その10~明治15年当時の小樽港

 3-1:小樽市の発達

 明治以降の小樽市街の発展過程は「小樽市史」の記述と、開拓使の「北海道志」の掲載図、陸地測量部(戦後は国土地理院)の地形図、小樽区役所及び小樽市役所作成の地図などによってかなり細かく追及できる。中心街に限ってその足どりを述べると、次のとおりである。

CIMG6551明治15年当時の小樽港「小樽市街改正道路地図」(明治15年・1882)~写真集小樽築港100年のあゆみ より

(1)『北海道志』の「小樽港図」(明治15年作成)によると、当時すでに、勝納川と入船川の河口付近の市街地は連担し、二つの川の流域をつなぐ東西の道路が開削され、現在の若松線、潮見台線、山の上線、住発線および入船線のそれぞれの原形道路が設けられていた。

 一方、磯つたいに、水天宮の丘の下を通り、小樽郡の集落と高島郡のそれとを結ぶ、現在の大通線の原形道路が明治14年にでき(『小樽運河史』)、有幌、港、堺、色内を通って手宮へ達していた。

 しかし、山側の南北方向の道路は丘陵部の開削がむずかしく家屋も建たなかった。現・花園・稲穂地区は、ほとんどが未開発か畑地であったらしい。同図によると、龍徳寺前から現・住吉線までの道路(国道5号の原形の一部)と量徳小学校脇から現・大通北線の位置を進み、現・稲穂5丁目の荒巻山(石山)すその塩谷街道に達する道路とにすぎない。

 このほか、高島郡側の道路として、於古発川左岸に現・於古発川通線が、また現・浅草線とが部分的ではあるが開削されていた。さらに色内川河口から前述の塩谷街道(丘陵南すそを通る道、現・塩谷線)が通っていた。湯殿山光明院下と色内小学校下を通る道だが、当時は色内川をそ上する現・国道5号にあたるルートには道路はなかった。また、前述の現・大通線の終点近くから手宮川に沿って高島に通ずる現・手宮中線の原形の道もできていた。

 以上が『北海道志』の図(明治15年作成)が示す道路状況であるが、小樽博物館蔵の「明治十五年当時の小樽港」図は、計画路線も加えて、さらに多くの道路も記載している。

 明治13年(1880)、幌内鉄道が手宮を始発点として開業する。我が国3番目の鉄道である。現小樽市域内に手宮、住吉(現・南小樽駅)、朝里、銭函に停車場が設置される。