博士の気持ち

2014年11月07日

、、、これ以後、毎年一回から数回にわたって激しい波のしゅうげきをうけることになるのです。

 

 ことに三十二年十二月の激しい波は、くだけた波が堤の上、15メートルにたっし、積畳機のほかは何も堤には残らなかったほどの被害をあたえた。この時の博士の気持ちを博士自身が二十年ほど後に文章にしたものがあります。

 

「当時、経験の少ない自分の苦心はひととおりでなく、ことに三十二年十二月の時、にわかに暴風がおそい、たちまち怒涛がおこり、二、三時間のうちに何もかも破壊して洗いさられ、のこったものは、防波堤と積畳機のみとなった。これらも、ますます加わる風と波にたえがたき状態となり、激しい波のなすがままにまかせるしかなかった。

 ここにおいて自分は万事休し、部屋にもどり思案にくれ、心おだやかでなかった。もし、今までできあがっている工事が、全てこわされたならば、何の面目があって、その状況を報告し、予算をもらうことができようか。このときばかりは、ほんとうになやみ、もし、こわれたならば、自分の命を断って、あやまちをおわびするほかない。こう思い定めると、心も静まり、横になって、」

 

 この気高い精神は、やがて愛弟子の伊藤長右衛門にうけつがれ、南提がつくられていくのである。こうした中で三十七年に、日露戦争がおこり、工事は一時、ストップし、材料の値段もはねあがり、人手も少なくなり、たいへんな困難もありましたが、博士は、いつも、正しい処置をとり、工費も節約し、決して予算をこえませんでした。、、。

 

 学術の研究をもって使命としていたはかせは、我が国に前例のない大事業を行うという多忙をきわめた中でも、研究は一日も怠ることなく、実験の結果、海水工事に使用するセメントに火山灰を混ぜることの効果の大きいことを確信し、実行した。予想した通り、強さも耐久性もぐんとあがり、さらに、火山灰は小樽港近くでとれたので、工費も節約できたのでした。、、、。

 

 東京に移り住むことになった博士だが、夏、冬の休暇には必ず北海道にわたり、引き続き工事現場をみまわり、設計に施工に指導を怠らなかった。こうして明治四十一年五月、ついに完成した。

 「もし、小樽港の防波堤に、いつか間違いを生じることあれば、それはすべて、自分の責任である。」と、生前、こうさけんだ広井勇の胸像は、、、、、。

~文章は 広井勇 伝   鈴木章実代 編  より~

CIMG7208運河公園にたつ広井勇博士と伊藤長右衛門氏の胸像

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~ケーソン製造、世界で初めての斜路による進水方式、遠距離ケーソン廻航等 前例のない画期的工法を見出す

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 冬になれば海が荒れ、、用材を運ぶのにも危険があり、さらに水中の基礎工事では、冬でも潜水夫によるブロックの定着作業があり、そのきびしさは一通りではなかった。その中で現場責任者として工事を指揮してきた青木政徳技師は自らも潜水服を着て、海中の工事の指導を行い、寒さが肌をさす中でも風雪をものともせず、身をていしての作業は夏冬を通じ、礎石として投入された何千トンという大小の岩石の動きを一つ一つとらえ、コンクリートの打ち込みを指揮していった。夜は事務所に泊まり込みで、設計図と取り組むほどの真摯な努力を続けたという。

 しかし、ついに病気になってしまい、京都に帰り療養したが、明治三十三年五月十八日、その生涯を終えた。三十八歳の若さだった。故郷の京都、満福寺で葬儀が行われたが、その功績をたたえる碑は手宮公園にあり、防波堤を今も見守っている。~広井 勇 伝より~

CIMG7219人海戦術で

CIMG7221最新鋭の機械を使い

CIMG7281れた海を静め

CIMG7279穏やかな港を創り出すために

 

CIMG7247海に挑んだ明治の日本人の崇高な精神

祖父母の時代。