どちらも御膳水?

2014年11月28日

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CIMG7806公園内御膳水跡

CIMG7812青木技師の碑

 一目 青木技師の碑

 青木氏は明治二十九年北海道庁技師として小樽防波堤の築説に従事し、潜水服を被り深く海中に入り工を督し波濤の力を験し昼夜兼行寒風風雪を冒して盡瘁した。其ため病に侵されて明治三十三年五月十八日遂に逝去せられた。明治四十四年八月氏の親友知己等相諮つて其功績を後世に傳へんために防波堤を眼下に見得る手宮公園の中腹に碑を建設した。其全文は左の通りである。

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「君の姓は青木政徳、幼称、武之助。元治元年十月京都城番屋敷に生る。父は政方といい、所司代に属し、砲術師範たり。母は桂氏。君は其二子なり。長兄は夭し、君家姓を継ぐ。活達勇毅、幼きとき群児と戯れ常に領袖たり。

明治十三年鉄道局の見習生たり。

明治十八年琵琶湖疏水の工事方担当するや、起工の初、君を長等山隧道井状抗工区に従事せしむ。蓋し長等山トンネル隧道は本邦第一の長隧道なり。我邦の工業は幼稚、工事困難なるに、君能く之を完成す。明治二十一年関西鉄道会社起工、将に加太隧道を穿つに及び薫工の人を欠く。白井博士之を余に謀る。余乃ち君を推す。君能く其任を完うす。更に白井博士に随い北海道炭鉱鉄道会社に従事し、能く其責を尽くす。

明治二十六年北海道庁属に任ぜられ、廣井博士に就き小樽築港の事に従う。

明治二十九年北海道庁技師に陞任し、三十三年正七位に叙せらる。

築港防波堤工事起こすや君は自ら潜水服を被り、深く海中に入り工を督す。

時に寒冷裂膚、風雨を冒して波濤の力を験すことに尽瘁、弥昼夜を別たず。

遂に病を得ても、尚且つ已まず。余時に北海道鉄道部長たり。屡君に勧るに静養を以ってするも聴かず。防波堤工事益々進み、君の病む所、弥篤し。堤が完成しようとして、君は鬼籍に入る。悲しいかな。夫の時明治三十三年五月十八日、行年三十有八。京都六角大宮満福寺に葬る。

防波堤と手宮山は海を隔てて相対し呼べば応えん。君を相知相謀り碑を山上に建て、君の績を伝えんと欲す。前北海道庁長官北垣男爵題字。余不得にして不文辞、乃ち其梗概を述べること是の如し。」

~『小樽築港の礎 技師 青木政徳』小澤榮著より

 

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CIMG7814小樽稲荷神社

CIMG7815尼港殉職者納骨塔全景

 

CIMG7809御膳水跡入口

CIMG7810煤田山の栗林

 二目 栗林の自然林

 園内の自然林栗樹は樹齢九十年から百年百五十年位の巨木であり、目通り一寸六尺から三尺以上の老樹がある。、、、

 大東亜戦第二年目である昭和十七年五月小樽市防衛のため小樽市内数か所に駐屯した防備隊は手宮公園内の栗の大樹数十本を高射砲の視界を遮蔽するとの理由で伐採したが、この栗樹は本道に於ける唯一の天然記念物で国防の為とは言へ惜しみても尚余りあるものである。

 

 三目 御膳水

 明治十四年明治天皇が北海道御巡幸に際して、御飲料に供し奉る御膳水の選定に付て当局者は最も慎重に調査して決定したのが手宮公園内に湧水する水である。

 この湧水は開拓師が幌内鉄道の建設に當り手宮に鐵工所を造り諸々の機械を据付けて車輛の組み立てや修繕をしたのであるが、同工場に於て使用する水が多量に要するので、この工場の裏手である公園内の清水澤に水源を有する場所へ水溜りを造り之を引用すべく明治十四年に着工し僅か二か月で竣工したのである。

 明治十六年水溜の木柵の周囲から漏水する様になつたので之を軟石で改造した。この水量は二百石以上である。

 この水は爾來手宮工場は勿論其他の工場に於て使用し小樽産業開発に貢献し大正三年鐡工場が苗穂に移転する迄用水として使用したのである。

 この舊蹟には昭和十二年

   聖蹟  明治天皇御膳水

の標本を建設した。

 この水源地は幸い手宮公園にあったので附近一帯の樹木が保護されたので、この地域のみは樹木が欝蒼として居りその谿間の一隅から清澄な水が、いつも絶ゆる事なく滾々として湧出して居る。

 

DVC00051.JPG厩稲荷神社からの

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「趣ある入口が御膳水跡だったんだ。」

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そして

DVC00044.JPG青木政徳碑の下

CIMG7768「春になると、滝になるところも御膳水と繋がっているのかなあ?」

 

知りたくて図書館に向かいました。

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『明日は、手宮市場で

かけそば 25食

販売します。』