実態調査(1992年)から その16~運河から埠頭へ

2018年04月05日

(7)明治以降、小樽港の海面は、手宮、小樽築港、堺、港、色内、南浜、北浜と次つぎに埋め立てた。中心市街の前の海面埋め立ては、明治32年(1899)以来、事業主体や、計画をめぐってもめ、同41年ようやく許可される。が、着工前に運河方式か埠頭方式かをめぐり、また騒ぎがあり、大正4年(1915)8月、運河方式採用と決定して工事を開始し、大正12年末全部の工事を完了する。翌13年、完成式を挙行したことはすでにふれた。

 運河形式は、港内の船舶から荷物を「はしけ」に移し、運河に入って荷揚げするもので、運河完成時点にはすでに時代に適合しない方式であった。このため、運河完成直後から、着岸できる埠頭の計画が始まり、昭和7年完工の堺町岸壁、次いで同13年~47年にかけて、くしの歯のように並んで建設された、第一、第二、第三埠頭が完成する。戦後の昭和48年に中央埠頭、さらに51年に色内埠頭が完成する。現・港町と運河以東の色内3丁目とは、これらの埋め立てから生まれた区域である。以上の大正・昭和期に形成された埋め立てに先行して、明治期に手宮と小樽築港の大規模な海面を埋め立てている。前者の現・手宮1丁目区域の大部分は、明治末期に、北海道炭砿汽船株式会社の埋め立て事業によって造成したもの。後者の小樽築港駅の背後の「築港」町の区域は、明治末期から鉄道院、鉄道省が埋立てて造成したものである。