河豚

2014年12月19日

 ふぐを恐ろしがって食わぬものは、「ふぐは食いたし命は惜しし」の古諺に引っかかって味覚上とんだ損失をしている。その根拠の価値をきわめもせずに、うかうか古諺に釣り込まれ惜しくも無知的判断から、いやいや常識的判断から震え上がりその実、常識を失っている。

 これらにむかってわれわれが冬季常食する天下唯一の美味、摩訶不思議の絶味であるふぐの料理が、いささかの危険性なき事実を諄々力説してみても、その確実を容易に信じようとしない。いわゆる先入主に捉われて頑として動こうとしない。

 ふぐというもの、いかんせん人命を奪う毒素あり、例えば十中の三位は確実に中毒し全く命にかかわると決まっているときにこそ「ふぐは食いたし命は惜しし」が岐路に立って迷うひとのために、時に善き教訓となり、あやうくひとの命を守り得る寸鉄のはたらきと…ならんでもないが、このごろのように河豚の安全料理が確立して、全く危険が取り除かれた時においては、「ふぐは食いたし命は惜しし」は、寸鉄としての価値を失うばかりか、無益にひとを恐怖さすところの戯諺にしか当たらない。しかのみならず、ひとの口福を拘束する余計な失言であるともいい得られる。

 誰がいったか、いつどんな時代に出来た諷刺だか判明しない。「ふぐは食いたし命は惜しし」にわけもなく囚になって、それがためにかえってめのまえの体験実際が物語る安全を信じられないという事は不甲斐ないばかりか、非常識でもあり、あまりにも迂遠なこととして恥ずかしい。飛行機に乗ることが冒険である…これは肯定出来得る。ぜひを顧みるいとまをないほどの急用でないかぎり、いたずらに飛行することは決して的を得た常識とは認め難い。

 しかし今日のふぐ料理は絶対安全と言って差し支えないまでの成績が挙がっている。この時安心して天下唯一の美味に親しんでみることは決して徒事ではないと思われるのである。なんでもかでも、海から山から捕えて食べ物となす人間としてのあたりまえの行事といえよう。それもたいやはものうまさ、うなぎやてんぷらのうまさ、このわたやからすみのうまさ、あゆやあなごのうまさ、まつたけやしめじのうまさ、うどやぜんまいのうまさ、そばやそうめんのうまさ、すっぽんや山椒魚のうまさ、若狭の一と塩、石狩の新巻、、あるいは燕巣、あるいは銀耳、鵞鳥の胆、キャビア、まあそんなもののうまさに似た程度のうまさであるならば、わたしはあえてがたがたするひとびとにわざわざ鞭打ってまでふぐの提灯持ちなんかしたりしない。ふぐの上手さというものは実際絶対的なものだ。ふぐの代用になる美食はわたしの知るかぎりこの世の中にはない。(続)