河豚(続)

2014年12月20日

 わたしはひとがなんと思おうとかまわぬ気で告白するが、今日わたしほど美食に体験を持っている人間は世間ほとんどない。朝から晩まで、何十年来片時も欠かさず美食の実験にしたっているまったくわたしのようなものはまずないと信じられる。この点では僭越ながら世上広といえども、自分は美食家として唯一とはいわないが稀有の存在であると信じている。もとよりそれが善事とも悪事とも思わないこと、もちろんだ。

 偉いこととも思わねば、馬鹿げた所業だとも思わぬ。ただそういうふうに生まれ合わして来ただけだとおもっているまでであるが。とにかく、誰がなんといっても美食没頭の体験においては人後に落ちない自信を有している。従って、あらゆる美食を尽くしていると告白するに躊躇しない。この日夜飽くなき美食何十年の実験生活を基本として至公至平に判断するとき、ふぐは絶味も絶味、他の何物にも処を異にすると断言してはばからないのである。

 由来毒をもって鳴るこのふぐなるものも料理に法を得られればなんら危惧なくして、口福を満たされることは前申すとおりだ。しかも、この頃のように下関から飛行機その他で自由に取り寄せられ、あるいは下関そのままのふぐ料理屋が東京に少なからず散在する際だから、この美食恵沢に未だ出合わない薄幸者は一生の不覚を食いに残さぬよう、翻然なにをおいてもまずふぐ料理の美味を試むべきである。そして、その飽喫から得た自覚を振りかざして初めて美食美味を語るべきだ。(続)