数の子は音を食うもの(続)

2014年12月29日

 かずの子の親漁、すなわちにしんからしてそうであって、ニシンの生は煮ても焼いてもさほど美味くないが(※1)、これを一旦四つ裂きにしたのを乾物にし、それをまた水でもどしてやわらかくし、その上、料理したものは立派に美食として取り扱い得る力を持っている(※2)。

 にしん、棒だらなぞというものは、料理が不味いと感心しないものであるが、料理が適当に塩梅されると、堂々と美食家をよろこばすだけの特殊な美味さをもっている。にしんや棒だらを美味として食わないような美食家があるとしたら、それはにせものである。

 かずの子を食うのに他の味を滲み込ませることは禁物だ。だから味噌漬けや粕漬けは、ほんとうに数の子の美味さを知る者は決してよろこばない。醤油に漬け込んでおくことも禁物だ。水にもどしてやわらかくなったものをよく洗い、適当の大きさに指先でほぐし(※3)、花かつおまたは粉ガツオのよいものを、少し余計目にかけて、その上に醤油をかけ、醤油があまり卵の中に滲み込まないうちに食うのが、数の子を美味しく食う一番の方法である。しかも、これが従来、世間でふつうに行われている方法である。これ以外、変わった料理をしてみても、ただ目先が変わっているというだけで、味覚に、これが美味いというようなものに出くわさない。

 生または塩漬けの数の子は、包丁で斜めに薄く切ったものを、甘酢にしばらく漬けておいてもよいが、いや、そのほうがよいようでもあるが、干し数の子は、包丁で切ると、どうもおもしろくないし、美味くもない。これはやはり指先でほぐしたものにかぎるようだ。

 かずの子には、口中でパリパリ炸裂せず、型のごとき音の響きを発せず、シコシコ、ニチャニチャして、少し渋味のあるようなものがあるが、それは卵が胎内において成熟していないのである。いわば臨月間際のものではなくて、妊娠五か月六か月程度の未熟なものである。このような成熟しないものは、いかに数の子といえども、不味いものである。(昭和五年)

~魯山人著作集 第三巻 料理論集 五月書房発行 北大路魯山人著より

 

※1について

 魯山人は、鰊の獲れる時期に北海道に来たことがあるのだろうか?調べてみました。作品展は北海道各都市美術館で開催されていましたが、本人が来道したという記述を探すことは出来ませんでした。

 

『旬の鯡の美味しさについて』

その1~堀 耕 郷土史資料集より

~郷愁のニシン場~

 「初ニシンがあがると、近所の人はかごを持って浜に集まり、さっそく家の外に七厘を持ち出して焼いた。昔のニシンは油が多く、ニシンは火に包まれ、それをウチワであおいで消した。ご飯を食べないで二匹も三匹も食べたものだった。」

 

その2~鰊場物語 内田 五郎著より

 春早く獲れた生きのよいニシンをザッと洗い、鰓を抜き去り、長い串に一本ざしにして炉辺で焼くと、ジュウジュウと油がたれる。魚の表面が黒くなるほど焼けたのに醤油をかけるとジューッと音がたつ。食べるとそのおいしいこと、本当に春の鰊漁期になったなあ、という実感がわく。

 私の知っている人でこの鰊の焼いたのを、ご飯ぬきで一度に十二尾食べたのを見たことがある。

 春四月、初鰊のころ、各家庭で夕餉の支度に、七輪の上に鰊をのせ、団扇でバタバタやっていると四、五軒先まで焼鰊の香りが鼻についてくる。これがあちこちでいっせいにやるので、街中が鰊の香りでいっぱいになるほどである。

『旬の鰊 塩を振ったニシン焼き、ぜひ食べてほしかったなあ。』

※2について

鰊の甘露煮のことかな

※3について

薄皮を取ること?~それは必ずすべきです。

CIMG8433薄皮を取った数の子

数の子はそのままバリッと食べるのが一番、だと思うのですが。

ほぐす?なんかもったいないな。形も食べてほしいなぁ。